田中樹インタビュー。日本のサーフィンの未来、サーフィン業界を良くするために自分ができること。

昨年、長いコンペ生活に終止符を打った田中樹。 プロになった翌年から引退するまでトップシードを18年間キープ。

2009年には念願のJPSAグランドチャンピオンも獲得した。

華々しいキャリアに加え、プロ生活の後半に始めたサーフコーチ。 それは日本人選手を世界に送り出したいという想いから。 だからこそ、選手との信頼関係を作るためにも自身の実績にもこだわった。

その田中樹が選手を引退する。 新たなステージを迎えたところで、改めて過去と現在。 そして、日本のサーフィンの未来を語ってもらった。

 

プロサーファーとして最後のヒートを終え、笑顔をみせるイズキ
毎年恒例のオークリーのイベントではコンテスト・ディレクターを務める田中樹
家には数え切れないほどのトロフィーやメダルが並ぶ

 

写真、インタビュー:山本貞彦

 

ープロ生活18年、お疲れ様でした。まずはこれまでを振り返って。サーフィンをするきっかけはな んだったんですか?

 

僕の生まれは茅ヶ崎の湘南です。フリュードパワーの藤沢譲二さんところで、親父が茅ヶ崎でサー フィンを始めたので。でも、その時はまだ僕は6歳で、サーフィンは全くしていませんでした。普 通の小学生で、ゲームや野球を友達とやったりとか。学校の部活はサッカー部しかなかったのでサッカーで。

 

週一で地区のソフトボールもやっていました。サーフィンよりそっちがメインでした ね。上手くなかったですけど、みんなでワイワイやって楽しかったです。夏は海水浴がてら海に 行くんですけど、サーフィンをやった記憶は全くないですね。

 

その後、親の仕事の関係で、千葉に転勤というか、フリュードパワーさんがサーフショップを千葉 に出すということで、親父が頼まれて。それで千葉の作田、九十九里に引越したんです。そこで初 めてサーフィンをやるようになって、小学4年生とか、10歳ぐらいですね。

 

 

もともと負けず嫌いだったので、上手くなりたい一心で練習しました。

 

ーそこからサーフィンにハマり出すのは、いつぐらいですか?

 

始めたのが、たぶん冬とかだったと思います。翌年の5月にNSAの支部予選があって、その初めての試合では3番でした。まあ、沖に出てチョロっと何かやれるぐらいで。まあ、その当時はそんなに人数もいなかったので。それで全日本は新島へ。

 

その当時は大野兄弟がいて。それがハンパじゃなく上手くて。プロサーファーも今まで近くで見たことがなかったので、ノリ君(大野仙雅)、マー君(大野修聖)の朝一の練習を見て、とても驚いた記憶があります。だから、ハマりだしたのは全日本出られるようになってからですね。

 

結果は横にちょっと滑れるだけというレベルだったし、試合自体を良くわかっていないというの もありましから、勝てなかったんですけど。一コケでした。そこからですね、大会に多く出るようになったのは。もともと負けず嫌いだったので、上手くなりたい一心で練習して。それでこの全日本で一番を取るんだというのが目標になりました。

 

 

ーそれでアマチュア時代の結果は?

 

2000年の千葉の東浪見で行われたNSAの「全日本(第35回全日本サーフィン選手権大会)」の ジュニアで優勝することができました。

 

ーそれで、今度はそこからプロになろうと思った理由は何だったのですか?

 

その前年、1999年にJPSAの「千葉プロ」があって。その時に千葉のアマ代表でワイルドカードをもらって、初めてプロの試合に出たんです。ただ、足を怪我していて思うように戦えなくて、一コケして。でも、その大会に出ているプロサーファーがすごく上手いなって。自分のアマチュアのレベルと比べたら当然ですけど。上には上がいるんだって。そうなるとプロの世界で勝たないと本当の日本一じゃないないなと思ったからです。

 

それで、その翌年も鉄兵(田嶋鉄兵)とワイルドカードをもらって。確か2回勝ったのかな。クォーターまで行ったんです。それで規定のラウンドを勝ち上がったということで、プロになれま した。2000年の最終戦でプロになったので、プロ活動は2001年からということになります。

 

引退試合ではヒート終了後に父と抱き合って感謝の思いを伝えたイズキ

 

2年連続、あと一歩で取れなかったことが悔しくて。正直、ヘコみました。

 

ープロになった時に決めていた目標とかあったんですか?

 

最初の目標は優勝でした。2001年の初っぱなのランキングは25位じゃなかったかな。学校にもま だ行っていたので、全部回れてなかったから。2002年からフル参戦して。それで、2002年に初めてプロで優勝したんですよね。千歳で行われた「55DSLプロ」です。アダム・フォンスが相手でし た。ズッチョさん(河野正和)がグラチャンを取った時ですね。それで、次の目標はプロ日本一だと。

 

ープロになってすぐ優勝。そして、次の目標はグラチャンへと?

 

JPSAにフル参戦した2002年の最初の結果は5位でした。2003年、4年と続けて2位で。順調に見えますけど、2003年の牛越さん(牛越峰統)の時は、クォーターを勝ち上がれば取れるとこだったんですけど。普段はクォーターで負けることは、一年通してなかったのに。セミまで行けばグラチャンだったんですけど、勝てなくて。

 

田嶋鉄兵、高梨直人とともにサーフユニット3Tを組んで新たな時代を切り開いた田中樹。

 

2004年のマー君(大野修聖)の時は、5番になれば良かったんですけど7番だったんですよ。4位負け。最後の一歩で逃すのが続いて。2年連続、あと一歩で取れなかったことが悔しくて。正直、ヘコみました。ファイナルには、わりと行けたんですけど。その年は一つも優勝がなくて。それも一 つの理由だったと思います。

 

そこで経験を積むためにQSにも挑戦しようと、ナオさん(小川直久)を頼って、大野兄弟、 鉄兵と回りました。それでも、グラチャンはQS回りながらも取れたらいいなって、軽く思って海 外に出ていたんですけど。そんな簡単にもいかず。

 

でも、少しずつでしたけど、手応えは感じていて。試合に出れば、ある程度は勝てるというか、 試合をこなすことができたので。2005年には当時のASP(現WSL)のQS5スター「オニールプ ロ・フランス」で3位に入賞することもできました。それで、オニールが2006年からスポンサーに なったんですよね。だから、JPSAだけでなく、QSも積極的に回るようになりました。

 

ここで取るしかない。ここで取れなかったら、もう二度と取れないだろうという覚悟もありましたから。

 

 

ー海外での実績も実力も上がってきて、念願のタイトルを2009年に取りました。その時のことは 覚えていますか?

 

2008年に結婚して、2009年に子供、長男ができた年で。環境が大きく変わった年でした。2009年 にグラチャンを取ることができて。なぜ、この年に取れたか。正直、いまだに良くわからないですけど。すごく気合が入っていたのは覚えています。志田の場合だと地元だというのもあったし、だから勝ちたいというのもすごくあったし。何か形に残したい、踏ん切りじゃないですけど。その気持ちだけは強かった気がします。

 

この年のタイトル争いも難しい状況だったんですよね。優勝がその年は無くて、2番、3番とかばかりで。この大会では優勝しかなくて。ダレン・ターナーもその中に入ってて、タナーは2番だったのかな。健太(林健太)がセミを勝ち上がったら、無理だったんですけど。健太はセミで負けて。それでもグラチャン取るには、優勝しかないという追い込まれた状況で。

 

昭太、譲、ターナーが決勝のメンバーだったんですけど、オープニングで先攻リードして。当時はプライオリティもな かったし、昭太をガードして試合が終了するのを待っていました。あと最終戦が志田だったとい うことで、そこは自信もあったんです。それに、ここで取るしかない。ここで取れなかったら、もう二度と取れないだろうという覚悟もありましたから。

 

ーやはり、世界を回って学んだことが大きかったですか?

 

そうですね。QS出るようになって、まず自分たちのレベルを知って。上手くないのに勝てるわけ がないと思い知らされて。出た三戦とも一コケとか、ざらだったので。まずメンタルがイかれま した。何であの最後の波に乗せちゃったんだろう、何であの時コケたんだろうとか、そういう後 悔ばかりで。お金をかけて、何やってんだみたいな感じでした。

 

だから、まず試合をよく観察しました。そうするとサーフィンの勝敗は、実力通りじゃないことも わかって。常に勝てる奴は、上手い試合運びだったり。勝つ人はどんな状況でもヒート運びだっ たり、座るポジションだったり、絶対このルーティンで勝つみたいなのがあることに気付きまし た。

 

ルールも今よりは難しくなかったですし、そこを勉強して。単純な話、乗れなかったら勝てない、乗られなかったら負けないわけじゃないですか。それをどういう風にしたら、一番スマートにやっていけるのかというのを考えながら、やるようにしました。自分だけ乗って、どういう風に乗らせないとか。結果、それがグラチャンに取るにあたって、大きかったかもしれないですね。

 

 

試合で戦う メンタルが続かなくなったこと。コーチした選手が勝つ喜びの方が大きくなったことが引退の理由です。

 

ー田中樹の原点はそこだったんですね。さて、引退はいつから考えていたのですか?

 

2013年の30歳の時には、考えていました。QSを回るのは、その前の年に辞めて。30歳は区切りの 良い年だしと考えていました。 2012年の最終戦の鴨川で優勝したのが最後で、それ以後は優勝がないんですよね。だから、自分もそろそろ限界かなって思っていて。ただ、スポンサーがもう少しやれるだろうということで、JPSAをあと5年間は続けようと話し合って、35歳で引退すると決め ました。

 

一つの区切りですね。スポーツ選手というのは自分が動くうちに辞めたいとか、有終の美を飾って辞めるとか、体力的にメンタル的に無理だと思って辞めるとか。僕自身で言えば、試合で戦う メンタルが続かなくなったというのが理由ですね。ここ何年もやってきて勝つのが非常に難しく なって、一コケも増えてきたから。

 

それと2010年に弟の譲(田中譲)と若手の育成を目的にセミナーを始めて。JJP(ジャパンジュニ アプロジェクト)でも専属コーチという仕事をやり始めたことが、大きかったかもしれません。 自分が選手として勝つのも嬉しいんですけど、コーチした選手が勝つ喜びの方が大きくなったことがあります。

 

イズキ塾で実力を開花させた川合美乃里

 

自分はタクティクスをメインに試合中のメンタル。スコアの出せるサーフィンを教えます。

 

 

ー自分のことよりも選手を育てたい。コーチングに気持ちが傾いてきたんですね。これをやろう としたきっかけは?

 

海外でQSを回って、元プロの人だったり、チームマネージャーだったりがコーチしている姿を良 く見かけたんですね。その当時、日本はあまりそういうのはなかったじゃないですか。親が教え たり、近くの先輩のプロが教えたりして。専属的なものがなかった時代でしたから。

 

試合を見てても、サーフィンが上手いのに、ここが足らないから勝てない。ここをこうすれば、勝てるんじゃないかというのを、実際に自分が体験して、見ていてわかるようになって。自分も試合に 出ながらアドバイスしたら、それで勝ち上がったりとか。僕にできるのはタクティクスの部分なんだって思って。

 

だから、僕はヒートで教えるのがメインです。これをやられたら相手は嫌なんじゃないかってことを、やらせてみたりするとハマったりとか。スキルを伸ばすというのは、長くスパンかけてやらなくてはいけないことですけど。ヒートのコーチングは一つか、二つのアドバイスでできるので。 だから、自分はタクティクスをメインに、プラス試合中のメンタル。僕の場合はスコアの出し方、 スコアの出せるサーフィンを教えます。今ある選手の持っているスキルで組み立ててあげます。

 

それで選手が勝つことができれば、何より嬉しいし。その選手自身も大きく変わりますから。眠っ ている才能を無駄にしないで済むなら、その手助けをしてあげたいと思うようになったんです。

 

JJPのコーチとしても世界を目指すジュニア選手を育てた

 

ライセンスのベースになるようなものを作ったりサーフィンの塾的なこともやりたいと考えています。

 

 

ーここ最近、日本でもコーチをつける選手が増えて、大会会場でも多く見かけるようになりまし た。

 

そうですね。コーチが増えてきたことはとても良いことだと思います。そこで、僕自身も頑張らな くてはいけないというのもありますけど。コーチ全体のノウハウ、スキルだったり、コンペシーン に限ってですけど、自分含めて、みんながスキルアップすることが必要なのかなって。だから、今、 ライセンスのベースになるようなものを作ったりすることができたらなと思っていて。来年からは塾的なこともやりたいと考えています。

 

あと若い子に言えることですけど。サーフィンをやっている子は、通信が多いですよね。悪くないですよ。でも、自分はやはり、ちゃんと学校に行った方が良いと思っていて。集団で授業受けることや、団体生活をすることが大切で。それでサーフィンが授業の科目の中にあるという形ができれば。

 

なので、サーフィンの塾みたいなものを考えていています。そういうものを地元発信でできないかなって。まずはサーフィンからですけど、勉強も教える塾。学校とかは難しいので、できることからですけど。

 

それと、そこで教える講師。サーフィンに関してはコンペだけに最初は特化して。人を教える、コー チに興味を持っているプロに来てもらって、コーチになってもらう。それは自分のキャリアを活 かすことだし、それを仕事にしてもらって、生活できるように。プロサーファーを辞めても、コー チという仕事で生活ができるんだという、一つの道を作ってあげたいんです。

 

今後はJPSAのコンテストディレクトターとしても手腕を振るう。前JPSA理事長牛越氏と

 

JPSAではコンテストディレクターとして、選手の立場を考えながらやっていきたいと思っています。

 

 

ーコーチングからの塾構想。そこに来る選手だけでなく、そこで働くプロサーファーの新たな雇用 まで考えているのは、素晴らしいですね。さらに4月からJPSAの理事にもなると聞きました。ここで改革していきたいこととかあるのですか?

 

自分はズッチョさん(河野正和)とコンテストディレクターをやります。ただ、僕はQSでコーチ の仕事もあるので、交代しながらやるという形になると思います。コンテストディレクターで一番 大事なのは、波の状況を早く把握して、どういう風に大会を動かして、どこまでやってというのをディスカッションしてジャッジするというのが仕事です。

 

選手優先はもちろんですけど、ある程度、大会運営に当たっては、強行しなきゃいけない部分も あると思うんですよ。今は波がなくても終わらせるということを強行しているんですけど、もう少し上手くやれないのかなっていうのは感じています。ズッチョさんの良いところは、もちろん受け継いで、選手に不満が出ないように。波が小さかったら、選手から不満が出るのは当たり前ですから。それを自分が選手だったら、どうしてもらいたいか、どうやったら一番ベストなのかを考えながらやっていきたいと思っています。

 

ー大会日程が他団体と重なることはどう思いますか?

 

そうですね。団体が別だから、関係ないと言えば、関係ない。それは選手が選べば良いことだけ なので。それで、世界戦とぶつかったり、日本国内でもバッティングしたり、いろいろあります けど、それはもう選手が選ぶ部分でもありますから。QS出たい人はQSに出れば良いし、JPSAに 出たい人はJPSAに出れば良いし。

 

でも、メディアが分散するというのもありますから。日本でやるプロの試合は、できれば週末は 一箇所の方が良いかもしれないですけど。ただ、あとから日程が移動することも多いので、それ は仕様がないのかなって。そこは協会が上手く連携してやるべきではないのかなって思います。

JJPのコーチとして挑んだ昨年のWJCでは安室丈が日本初の準優勝となった

 

試合だけだったら、平日にやっても良いと思います。大切なのは、波のある日にやること。

 

ーイベントは週末の土日開催という形が多いですよね。これについてはどう思いますか?

 

土日で人を集めるというのは、まずは集客ですよね。大会会場に見にきてくれるというのが一番 で。そのイベントを考えると、とても大切なことですけど。でも、サーフィンの大会は、波ですよ ね。波が週末に必ず入るなら、何の問題もないですけど。でも、その週末に波がないということ も多いですよね。

 

今はネットの配信でライブというのもありますし、SNSとかもあるし、割と身近に感じられるようになったじゃないですか。だから、無理に週末にやらなくてもいいのかなって。大会主催で土日にビーチイベントがあるなら、週末でしょうけど。試合だけだったら、平日にやっても良いと思います。大切なのは、波のある日にやること。それに週末開催よりも平日開催の方が経費の削減 もできると思うんですよ。

 

どうしても週末を絡めるなら、トライアルを土日にやったらどうかって、この前に直人(高梨直人) と話したんですよ。トライアルに出る人は仕事や学校行っている人が多いから、その方が挑戦しや すいんじゃないかなって。それで、月火でプロの試合をやるとか。ただ、トライアルを勝ち上がっ たら、その続きは平日になりますけど。でも、実際、今もトライアルは木金とか平日やっている ので、そういうのも有りなんじゃないのかなって。ただ、ロングボードのプロと前に話したら、土日じゃないと仕事があって来られないという話でしたから、簡単にはいかないことですけど。

 

ーでは、来年に開催されるオリンピックについてはどう考えていますか?

 

陸上だったり、スノーボードだったり、いろんなスポーツがあると思うんですけど。それぞれの スポーツ団体の頂点だけでなく、オリンピックに出るという夢が一つ増えたのかなって。サーフィ ンで言えば、WSLでチャンピオン取るという夢もあるんですけど。その中の一つとして誰もが 知っているオリンピックが一つの目標となるということは、サーフィン界にとって良いことだと思 います。それによって、今まで来なかった一般企業がサーフィンに興味を持ってくれるということ があるわけだし。それは業界にとって良いことだと思いますから。

 

それにオリンピックとなれば、行政が関わって来るわけですし。国、県、その自治体とかがサーフィ ンに協力してくれるところが増えてくると思います。そうすれば大会も前より開催しやすくなると 思うし、イベント性も高くなると思います。

 

サーフィンが終わってもご飯食べていけるんだっていう形を、 現役にちゃんと伝えたい。

 

 

ーこの大きな流れで日本のサーフィンは変わると思いますか?

 

変えていきたいというか、もっと良い方向に転がって行ってもらいたいですね。自分一人の力じゃどうにもならないんですけど。でも、今、自分が関わっていること、サーフィン業界を良くするために自分ができることに集中して、やっていきたいと思っています。自分が在るのもこのサーフィ ンのおかげですから。だから、僕はサーフィンが終わってもご飯食べていけるんだっていう形を、 現役にちゃんと伝えたい。サーフィンやっていても大丈夫だぞっていうのを示すことが、今の僕にできることなのかなと思っています。

 

どうやったら人を喜ばせることができるのかを今からじっくり考えて、サー フィンして欲しい

 

ーでは、これからのプロやプロを目指す選手にアドバイスするとしたら?

 

もっと頑張ってくれっていう感じです(笑)。今は環境は良いし、親も協力的だし。昔から親は最初 のスポンサーなのであれですけど、いつまでも続くわけじゃないですから。親の協力というものは限界がある。いつかは自分でやらなくてはいけない、ということを知ってほしいですね。

 

そうなるとスポンサーを見つけなくてはいけないし。超生意気でも、超上手くてワールドチャン ピオンなれるんだったら、それはそれで話は別ですけど。スポンサーも今はただ大会に勝っているだけじゃお金をくれないので。そのスター性だったり、個人に投資するものだから。どういう風にしたら良いのか、どうやったら人を喜ばせることができるのかを今からじっくり考えて、サー フィンして欲しいですね。

 

ー最後です。怖いもの、ビビるものとかありますか?

 

怖いものですか?うーん、奥さん。奥さんには本当に頭が上がらないです。本当に好き勝手やって きて、奥さんともう17歳からなので、18年間ですからね。一緒にやって来て、ずーっとサポートしてきてもらったので。頭が上がらないです(笑)。

 

 

田中樹、35歳。

好きなサーフィンを仕事にした。 日本一という夢も叶え、家庭も持った。 それだけに集中できて、やれた18年。 そして、支えてくれた全ての人への感謝。 引退に悔いはないと言う。

そして、新たな一歩。 それは誰もやらなかったこと。 コーチングだけでなく、そのシステム作り。 さらにプロサーファーの仕事の創出まで。 なぜ、そこまでやるのか聞いた。

自分の存在意義。
それはサーフィンが培ったものだから。 そのサーフィンへの恩返しだと言う。 これほどの見識を持ったプロサーファーがいただろうか。 その想いが日本のサーフィンを、今、変えようとしている。

 

プロ戦績
2001年 JPSA 最終ランキング 25位
2002年 JPSA 最終ランキング 5位 JPSA「55DSL PRO」優勝
2003年 JPSA 最終ランキング 2位
2004年 JPSA 最終ランキング 2位 JPSA「アロハガルーダカップ」優勝
2005年 JPSA 最終ランキング 8位 ASP WQS 5 ★「オニールプロフランス」3位
2006年 JPSA 最終ランキング 14位 ASP WQS 2 ★「SAHARA PRO」優勝
2007年 JPSA 最終ランキング 5位
2008年 JPSA 最終ランキング 7位
2009年 JPSA 最終ランキング 1位 JPSA「ALL JAPAN PRO」優勝
ASP WQS 2 ★「HYUGA PRO」優勝
2010年 JPSA 最終ランキング 3位 JPSA「ALL JAPAN PRO」優勝
2011年 JPSA 最終ランキング 4位
2012年 JPSA 最終ランキング 3位 JPSA「ムラサキプロ 鴨川 supported by 海童」優勝
2013年 JPSA 最終ランキング 6位
2014年 JPSA 最終ランキング 9位
2015年 JPSA 最終ランキング 6位
2016年 JPSA 最終ランキング 10位
2017年 JPSA 最終ランキング 12位
2018年 JPSA 最終ランキング 14位

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※ コーチ

JJP ( Japan Junior Project )専属コーチ