スティーブ・モーガン・インタビュー02

スティーブ・モーガン・インタビュー02

1970年代半ばにサンディエゴでサーフィンに没頭しシェイピングを始めたスティーブにとって、その土地のソウル・シェイパーたちとの出会いに恵まれたことは何よりの好運だっただろう。なかでも、いまだにサンディエゴで語り継がれる伝説のクラフツマン、故ビル・キャスターをシェイプ人生の模範としたことが、スティーブのその後のシェイパーとしての生き様を決定づけた。そしてショートボード・レボリューションの立役者で革新的なサーフボード・デザイナーでもあるブルーワーのレーベルでの仕事が、スティーブのキャリアにさらなる磨きを加える。サンディエゴからハワイへ。彼のシェイピングの成長期となったハワイ時代とは…。

interview :takashi tomita  photo:gordinho

 

第一章:サンディエゴのルーツ 第二章:ブルーワーとの出会い 第3章:ハンドシェイプへのこだわり


 

SM: ブルーワー・レーベル時代の話を聞かせてください。なぜハワイに移住したのですか?

M: 70年代後半当時から、ブルーワーはハワイとカリフォルニアを行き来していた。サンディエゴではゲーリーと私で上手くビジネスを展開していたが、そのうちゲーリーが自分のレーベルを立ち上げることになる。同じ頃ブルーワーがオアフからカウアイに事業のベースを移すことになった。このタイミングで私はハワイへ行くことを決意したんだ。抵抗はなかったよ。小さい頃から両親とハワイにはよく通っていたしね。それに妻の家族もハワイ島出身。ハワイに行くのに問題は何もなかった。

SM: ブルーワー・レーベルには他にもたくさんのシェイパーがいましたか?

M: シェイピング・チームには昔から蒼々たる顔ぶれが揃っていた。サム・ホーク、ゲーリー・リンデン、オウル・チャップマン、ビル・ハミルトン。昔はエリック・アラカワだって何本か削っていた。正直言って、私のシェイピング人生における最大の名誉は、ディック・ブルーワー・サーフボードのためにシェイピングをしないかと誘いを受けた時だった。これは素晴らしいことだよ。

SM: ブルーワーと一緒に仕事をしてみて、改めて彼の偉大さを感じましたか?

M: もちろん。ブルーワーが60年代後半に開発したミニガンはショートボード・レボリューションの扉を開いたし、他にも彼は数多くのデザインを世界に先駆けて開発していた。ハワイの大波用のガンもたくさん手がけていた。サーフィンのヒストリーにおいて、絶頂期のブルーワーのファクトリーから生み出されたボードデザインは、当時作られていたあらゆるサーフボードの最先端をいっていたと信じている。またさらに、今日作られているボードのほとんどが、当時ブルーワーのファクトリーから生まれた特性の多くを反映していることも事実だ。そのファクトリーで働けたことは私にとっては大きな経験だった。ディックが常に私に示してくれたシェイパーとしての信念と支援に私は感謝しているよ。

 

 

SM: サンディエゴとハワイではボードのデザインの特徴も違うでしょう?

M: 間違いなく違うね。その当時私が住んでいたカウアイでは、2~15フィートのサイズに合うクイーバーが必要だった。私はカウアイのノースショアのハナレイに住んでいて、そこの速くてパワフルな波でいつもサーフィンをしていた。ハイパフォーマンスなサーフィンが求められるので、ボードデザインのタイプやスタイルもその波に合わせて開発とリファインを繰り返していたよ。

SM: その後モロカイに移り独立しますね?

M: そう、カウアイでは3年ほど仕事をして、1985年にモロカイに引っ越したんだ。カウアイも田舎だったが、モロカイはもっと田舎。ひとりでサーフィンできるポイントもある。いまも静かだよモロカイは。静かすぎる時もあるくらい(笑)。当時、モロカイにはシェイパーはいなかったからマーケットを独占していたよ。私はしばらくモロカイでもブルーワーのボードを削っていたし、ハワイの他の島やアメリカ本土の数軒のショップにも自分のレーベルでボードを卸していた。しかし実際にはモロカイにいて仕事をするのは難しいことなんだ。

 

第一章:サンディエゴのルーツ 第二章:ブルーワーとの出会い 第3章:ハンドシェイプへのこだわり