日本を代表するトップ・アスリートからサーフィンビジネスの世界へ。いまも夢を追い求める男。関野聡ロングインタビュー

 

日本人が世界へと挑戦していく礎を作ったサーファーの一人として知られる関野聡。1985-86シーズン「丸井ジャパンオープン」での5位入賞。 日本人として初めてのASPモースト・インプルーブド・サーファー受賞、ハワイのパイプラインではワイルドカード出場で13位という成績も残した。

 

彼の活躍は雑誌で大きく報じられた。

 

そして、現在は株式会社ワンワールドのCEOを務め、サーファーのためのより良い商品を提案。最近ではサーフィン中継の解説者としても活躍。そんな彼の輝かしいキャリアを振り返りながら、日本のサーフィン界の流れと進むべき方向を考える。

 

また今回は、昨年亡くなられたサーフィンフォトグラファー藤沢裕之氏が残した若かりし頃の関野聡の写真を見ながら当時を振り返りたい。

 

 

1985年 四国・徳島のリバーマウスでJPSAの試合が行われたときのショット。このときのカットが月刊サーフィンライフの表紙を飾った。

 

全日本ではジュニア、ボーイズとアマチュア・タイトルを総なめにして、プロトライアルに合格。JPSAではグランドチャンピオンを獲得。攻撃的なサーフィンスタイルでコンペシーンを席巻した関野は、サーフィンを始めたときから、人と競い合うことが本能的に備わっていたのだろうか? 

 

「最初に出たのはローカルコンテストで、そこから少しづつ試合には出るようにはなっていきましたね。昔から人と競い合うのが好きだったかどうかは分からないですけど、試合をゲームとして扱っていくべきだと考えていました。駆け引きがあって、単に相手より良ければ良いという考え方は持っていましたね。」

 

 

写真はパイプ。自分たちの時代、ハワイはいくしかなかったと関野は語る。デカい波は楽しかったとパイプラインでは13位という成績を残している。「その時はQFで4番負けしたんですよね。朝の練習でそれまで使った板が折れちゃうんですよ。板変えてやるんですけど。その時にマッチした道具でやらないと上手くできないというのをわからされた大会でしたね」と当時を振り返った。
自宅のサーフボード倉庫。85年の月刊サーフィンライフで彼の特集記事の扉に使われた印象的なカット。その特集タイトルは「遅れてきた男の逆襲。関野聡」
アマチュア時代からのトロフィーやメダルの数は数え切れぬほど。このカットもそのときに撮影されたものだ。

 

83年にJPSAプロ合格後、すぐに兄の光延とともに兄弟でオーストラリアに行った。そこで経験したものは、いまの関野聡を作ったと言っても過言ではないほど、いろいろなことを吸収して帰ってきた。そのときの経験や人脈が、今のビジネスに繋がっている。

 

 

「当時は、右も左も分からない生意気なガキで、サンキューもソーリーも言えないような少年だったと思います。オーストラリアに行って初めて、人としての在り方というか、英語もそうですけど、色々なことを学びましたよね。頼るものも何もなかったし、自分たちだけで生活していく。オーストラリアでの経験は、自分の人生を切り開いていくという意味では、非常に転機になった1年だったと思います。

 

オーストラリアの1年は、人生の中では大きかったけど、ビジネスという意味では、特別大きなものはなかったと思いますけど、あの時出会ったオーストラリアの人たちとかとは今もSNSでつながっているし、そのあとの世界を相手に仕事をする「きっかけ」になったと思いますね。

 

自分は高校卒業して、JPSAのプロに合格してすぐにオーストラリアに行ってしまったんですけど。オーストラリアでは、普通にサーフィンしている人たちのレベルが高すぎて、日本のプロサーファーだなんて恥ずかしくて言えなかったですからね。プロだというのを隠して向こうのアマチュアの試合とかに出てましたよ。笑」

 

 

久我孝男、糟谷修自とともにビデオ「エクスプロージョン」にも出演

 

関野聡は、80年代〜90年代にかけ、久我孝男、糟谷修自、福田義昭といったサーファーたちとともに、日本のトップ4のひとりとして君臨し、日本のサーフシーンを牽引する存在だった。

 

自分たちの時代は本当に良い時代だったとは思いますね。そのトップ4という括りになったのは、特にその4人がサーフィンが特別に上手かったからだと思いますが。それとは関係なく、ちょうど新たにサーフィンブームが始まっている時期で、コンテストをやればビーチはギャラリーで埋め尽くされてましたね。

 

携帯電話もない時代に、今のような「充満しちゃってるサーフィン」じゃなくて、サーフィンが遊びとスポーツと両立されたものとして流行っていた感じです。本当に面白い時期だったと思いますね。当時は遊びのシーンでもサーファーが優遇されている感じもありましたね。

 

 

その当時、関野聡は、株式会社丸井からスポンサーされるサーファーだった。丸井は、ASPツアー(現在のWSLワールドチャンピオンシップ・ツアー)で4つのイベントをディレクション。日本のサーフィン界の発展に貢献した。

 

関野聡は、そんな丸井がバックプップする 『AOIスーパー基金」という名のもとで、 世界8ヶ国、全22試合参戦のための航空券が援助され、ワールドツアーに参戦した。

 

 

新島で行われたジャパンオープンで優勝したのはトム・キャロル、2位にバートン・リンチ、3位にトム・カレンとデレク・ホー。そして関野聡が5位に入った。
ドジさんにインタビューを受ける関野聡

 

 

そして、1985年に新島で行われた「丸井ジャパンオープン」でショーン・トムソンらを下し5位入賞。 日本人として初めての「ASPモースト・インプルーブド・サーファー」を受賞するなどの輝かしい実績から、世界と戦うアスリートとして期待を集めた。

 

 

「新島で行われたASPの丸井プロは、当時はCTとQSという風に2部リーグ制になる前だったので、世界のトップ選手が出場する試合という意味では、今でいうCTイベントだったのかもしれないですね。

 

ASPがトライアルと本戦を同時開催で何年もやっていて、WQSをいよいよ作るよっていう時、それが92年だと思いますけど。そうなると自分もQSの方に参加していかなくてはならなくなって。

 

今までのやり方とは違うし、上位の人たちとも戦えないみたいな感じになって、ASPを回るのをやめちゃったんですけどね。91年が最後だったと思います。」

 

 

セキノレーシングは、ワイルドブルーヨコハマという波乗りが出来るプールのために作った会社

 

 

91年にJPSAのグランドチャンピオンをとって、自分のキャリアに区切りをつけた関野聡は、プロサーファーとして一緒に活躍してきた兄の光延とともに会社を作り、サーフィン界でのビジネスをスタートさせる。

 

 

「そこからビジネスの方にどんどんシフトしていって、選手としては引退していくんです。兄の光延と作った、その「セキノレーシング」という会社は、当時の日本鋼管が始めた「ワイルドブルーヨコハマ」という波乗りが出来るプールのために作った会社なんですよね。

 

 

ワイルドブルーではサーフィンイベントも数多く行われた  photo:s.yamamoto

 

 

ワイルドブルーヨコハマ(Wild Blue Yokohama)は、かつて神奈川県横浜市鶴見区にあった、年間を通して営業する波のプールを目玉とした、大型屋内温水プール施設。鉄鋼メーカー大手の日本鋼管の野球場跡地に、1992年に開業した。

 

 

「あの施設は日本鋼管が技術を持っていて、NSAの紹介でJPSAから自分のところに話が回ってきたんです。1/6のスケールのモデルを作ったからとテストライドを頼まれて、その後お披露目もやったりして。そこから日本鋼管の人にサーフボードのことを教えたりして、パイプが太くなって、ワイルドブルーがオープンしていくんですけど。

 

そこで「関野さんたちも一緒に携わっていってください」って声をかけてもらって、施設内の売店や、プールで使うボディボード、装飾のサーフボードまで、全て自分達に任せてもらってましたからね。

 

ボディボードで波に乗るプールだったんですが、自分達のリクエストで、営業時間外にサーフィンを出来るようにして貰ったり。最初は土日の朝一だけ出来るようになって、そのあとは営業時間が終わってからの夜の時間帯でもやらせてもらったんですよね。物凄く人気で多くの人が集まって、冬の稼ぎ頭になってましたからね。(笑)

 

 

 

 

ダイヤルQ2が自分達の資金源に。

 

 

そして、その頃すでにスタートしていたダイヤルQ2波情報「I-92」も爆発的人気となり、ワイブルと波情報を資金源として、関野兄弟のサーフィンビジネスが加速していった。

 

 

最初は他の会社の人がダイヤルQ2をやっていて、そこからの仕事として受けてやっていたんです。だけど、全然サーファーでもない人たちがやるよりは、自分達でやったほうが良いんじゃないかなと思って、自分達で機械を買って、NTTに申請して自分達で始めたんです。その当時のQ2も物凄い勢いで、それらが自分達の資金源になって、色々な商品を買って売るという商売が始まったんです。

 

そんな時に、日本のサーフィン系のアクセサリーを手広く扱っていた会社が潰れて、当時人気だった「ゴリラグリップ」の日本の販売代理店がなくなってしまった。そこで自分達にやらないかって話が来て、ちょっと不安もあったんですけど始めました。でも、それも思った以上の数が売れちゃって驚きましたね。

 

 

 

 

そして、常に時代の一歩先を行く関野兄弟は、ハワイアン雑貨が大当たり。兄・光延氏と事業を拡大させ、聡氏が現在のワンワールドをスタート。ハワイ事業の「フラ・ハワイ」とサーフィン系の事業に別れ、新たなスタートを切ることになる

 

しかし、ハワイの大ブームが去るとともにハワイ事業がメインとなっていたセキノレーシングは衰退。セキノのサーフィン事業をすべて、聡氏のワンワールドが引き継ぎ、現在も日本のサーフィン業界発展のために、様々な形で尽力している。

 

 

時代が変わり、SNSとかでプロサーファーというもの自体が情報を発信するなど、プロとしてのあり方が昔とは変わってきているように思いますが、いまのプロサーファーには何が求められていると思いますか?

 

 

時代が変わっても競技をやる人たちは、ワールドツアーに参加してCTに入るというのがステイタスだろうし、そこを目指してやっている子供達が、世界中にたくさんいますよね。やっぱり、そこが夢。ドリームステージだから、そこは目指すべきだと思いますよね。そういった目標がないとつまらない。

 

そして、そこを目指す人は『サーフィンだけじゃない要素』を持っていないとダメですよね。話すことやコメントもそうでしょうし、ビジュアルもそう。SNSの発信力だとか、投稿するものの編集の良さとか。いまの人はそこまで見ていますからね。その辺りが求められていますかね。

 

 

最近フリーサーファーという言葉をよく耳にするようにもなりました。どのように感じますか?

 

 

良いと思いますね。例えばユーチューバーとかでも、サーフレッスンの仕組みを自分で考えて、それを提供していくのも良いと思いますね。サーフィンを始める人や、やっている人に対して、プロが何かを教えていくというのは非常に良いことだと思うから、サーフィン業界発展のために、どんどんやってもらいたいなと思いますけど。

 

 

 

 

カメラマンの藤沢さんとの思い出とかありますか?

 

藤沢さんとは、新島に一緒に行ったのが初めてで、俺と兄貴の善家さんと奥田新志さんが一緒で。多分俺が17歳ぐらいの時だったと思うんですけど、まだ俺がサーフィン始めてそんなに経ってないころですよね。

 

藤沢さんは稲村が好きで結構来てたんです。ウエットもラッシュ着てたし。試合とかで新島に行く時の民宿もキチロン使ってたから、いつもマリン企画チームと一緒で。仲は良かったですね。そのころはまだ東京に住んでたんじゃないかな。それで結婚して奥さんと茅ヶ崎に住み始めたんだと思います。

 

 

この先生と出会ったことが自分の人生の転機でした。

 

 

兄・光延さんと西宮コーチとの撮影に自然と笑顔が溢れる関野聡

 

これも藤沢さんにとってもらった写真なんですけど、この真ん中に写っている人の存在っていうのが、自分の人生においてとてもデカイんですよ。オーストラリアの1年というのもデカかったんだけど、この先生と出会ったことの方が自分にとっては転機でしたね。

 

この人と過ごした時間が、自分のサーフィン人生でも、仕事でもそうだし、全部に伝わっているんですよ。この人に影響を受けているんです。

 

トレーニングのために善家さん(1982年JPSAグランドチャンピオンの善家誠)に紹介してもらった、ウェイトリフティングの西宮コーチなんですけど、人のエネルギーの出し方を教えてもらったんですよ。詩を色紙に書いてくれたりとか、手紙書いてくれたりとか。

 

 

サーフィン用のトレーニングを始める

 

 

 

 

選手だった時は、千葉に住んでいた時もあったんですけど、先生の詩が書かれた色紙とかが全部壁に貼ってありましたからね。最近部屋を片付けていたら、先生に書いてもらった昔の手紙とかが出てきて懐かしかった。

 

 

 

91年、湘南鵠沼で行われたオールジャパンプロで優勝して、その年のグランドチャンピオンに輝いた

 

 

マックスで週4とかでトレーニングしてましたからね。フラフラになるぐらい。それぐらいエネルギーを使って先生の言うことを聞き、そして、この先生と一緒にサーフィン用のトレーニングみたいのを始めるんですよ。

 

サーフィンには、このような動きが必要だから、トレーニングにこれを追加した方がいいんじゃないかとか。ウェイトリフティングの基本的な動きはあるんだけど、プラスアルファでサーフィンやって、そのあとは必ずストレッチをやるみたいな。

 

今のようなパーソナルジムみたいなものではないから。家に行って機材を組み立てることから始まるんですよね。それもただ持ち上げるんじゃなくて、毎回必ず自分の限界の限界までやっていました。

 

 

アスリートだねって感じるサーファーは少ないと思う。

 

 

四国のリバーマウスでも数々のショットを残した

 

 

この人との出会いは自分には良い影響しかなかったですね。この先生のウェイトリフティングの教えがあって、それをサーフィンに使っていくじゃないですか。そこで大会に出て勝つ。

 

アスリートってみんな言いますけど、本当にアスリートって呼べる人たちは、遊びのサーフィンの延長線上じゃなくて、スポーツ・サーフィンを通り越していかないとアスリートっていう言い方はしたくないんですよ。

 

 

この人アスリートだねっていうサーファーは少ないと思うんですよね。フリーサーファーの人とか、何もしないで、ただ良い波乗ってサーフィンしている人とかはアスリートでもなんでもなくて。色んなところで極めていく、俺は食事から体、演技から得点から全部を極めてる人をアスリートと呼んでるんですよね。

 

 

やってくれて良かったと思われるような何かを残したい。

 

 

この先生がいて自分がアスリートに変身していく。そこから会社が始まって、その同じエネルギーを会社に使っていくんですよ。仕事に。だから、この先生がいなければ、そのエネルギーはアスリートとしてもビジネスマンとしても出してこれなかった。というのが俺の中にあって。それぐらいこの人との出会いは貴重でしたね。

 

これからも良い人との出会いがあって実になれば良いなって思いますけどね。俺もできたら、やってくれて良かったと思われるような何かを残したいとは思いますけどね。

 

 

 

 

聡さんが立ち上げた自社ブランドの「TLS(トゥールス)」は、日本から世界に向けて様々なサーフアクセサリーを発信し続けているわけですけど、このブランドにはどんな思いが詰まっているのですか?

 

 

自分はワールドツアーを回って、ある意味、自分で思うよな結果を出せなかったんですよね。10年かけてでも、20年かけてでもワールドツアーで勝つということを目指してやってきたわけですから、そういう意味では全然敗者。全くの不成功みたいな結末なわけですよ。人生の中でも。

 

だから振り返ると、それだけが心残りでもあるし、やり切れなかった自分がダサいなっていうのを常に感じちゃうわけですよ。

 

例えばヒロト(大原)とかが(USオープンで)優勝したりすると、凄く意味のあることだなって感じるんですよね。勝ってなんぼの世界なんで。勝たなければ残らないし、自分を満足させることはできない。そこに行った意味がないみたいな。そんなことが何回もあるわけですよ。

 

 

自分がサーフィンで果たせなかった思いを「TLS(トゥールス)」に託して

 

 

自分が一人でワールドツアーを回っていた時なんて、自分のためだけに会場に日の丸の旗が上がっているわけじゃないですか。それなのに、さらっと負けて泣きながら帰るみたいな。そんなことを何回も経験してきたから。

 

そういう意味で「TLS(トゥールス)」は、自分で作って、やってきたブランドなので、大切にしたいなと思っている部分もあるんですけど、世界で売上をガッツリ作って、自分がサーフィンで果たせなかった思いを「TLS(トゥールス)」に託して世界で売って見せたいんですよね。そんな思い入れが自分にはあります。

 

 

でもビジネスって勝者はないんですよ。だから「永遠のチャレンジ」になってしまうんです。「TLS(トゥールス)」ブランドは、自分の人生の中での経験、ワールドツアーの経験の中から、もう一度世界に出していきたいなという思いがあります。

 

 

まだ行ったことのない処へサーフィンをしに行きたいですね。

 

 

プロサーファーとして活躍されてきた経験もあり、自分でサーフィンビジネスを切り開いてきた聡さんにとって、今後の夢は何でしょうか?

 

 

世界2周ぐらいしたいかなぁ(笑)。実は10年前のセキノレーシングからワンワールドを作るタイミングで、全部辞めようかなって思っていたんですよ。辞めてサーフトリップに出ようと思った時期があったんです。

 

ちょうど旅とかもインターネットで簡単に行けるようになって、自分の体も動くうちに行きたいなと思っていたんですけどね。でも色々やらなくちゃならないことがあってやめたんですけど。この会社を誰かに任せる時が来たら行きたいなって思っています。まだ行ったことのない処へサーフィンをしに行きたいですね。

 

 

世界の舞台で戦った元ワールドツアー・サーファーであり、1991年にはJPSAグランドチャンピオンに輝いた、日本のサーフィン業界のリーダーの1人である関野聡。自分の果たせなかった夢を自らが立ち上げたコアサーフギアブランド「TOOLS(TLS)トゥールス」」に託して、世界と今も戦い、夢を追い続けている。

 

 

取材協力:株式会社ワンワールド