脇田紗良ロングインタビュー。ハワイと日本で育てられたサラブレット。その先にある世界戦略と将来像。

日本の女子サーフィンの活躍が目立った2019年。世界から注目される選手がいる。それが脇田紗良、17歳だ。小柄ながら天性のセンスで、昨年、一躍トップサーファーの仲間入りを果たした。

 

今回は自身の戦いを振り返ってもらい、今までと何が変わったのか。そして、これからの世界戦略と自分の将来像など。また、バイリンガルな脇田紗良だから知る、ハワイと日本のサーフィン。生い立ちから家族のことまで、ありのままを語ってくれた。

 

脇田紗良

 

 

インタビュー:山本貞彦

 

ー15歳で世界へ挑戦。2018年からWSLのQSにフル参戦しましたが、最初から決めていたんですか?

 

同年代の子たちが2017年から回っていたので、本当は私も出たかったんですよね。でも、自分はその時、ハワイがメインだったので、ビーチブレイクとかに苦手意識があって。それなら試合を一から学ぼうと考え直して、グラチャンに目標を置いて1年間、JPSAで頑張ってみようと思ったんです。なので、世界は2018年からと決めていました。

 

 

ー2017年のJPSAでは田原で初優勝して、この年のルーキーオブザイヤーも獲得しましたね。翌年、満を辞して世界へ転戦。2018年QSは11戦回って、ランキングは56位。さらに、この年もJPSAには3戦も出ていて、種子島で優勝しています。年末のWJCへ初めて出場して9位という成績。ISAのジュニアにも選抜されて、U-16で3位に入賞しました。とても忙しかった年でしたけど、振り返ってみてどうですか?

 

2018年はとてもハードでしたけど、世界をメインに転戦すると心に決めた年でしたので、多くを学んだ1年でした。ただ、QSで言えば、これをメインに参戦するとなったんですけど、やはりポイントがなかったので1000とかしか出れなくて。3000のバルバドスとマルティニークはオートネ1番だったんですけど、出れなくて帰って来るということも度々あって。ポイントがないと「3000も出れないんだ」と思い知らされました。

 

バーレーヘッズで行われた「Flight Centre Burleigh Pro」で準優勝 © WSL / John Andrews
WSL / Andrew Hobbs

 

1月にやった1000のバーレーヘッズ(オーストラリア)の「Flight Centre Burleigh Pro」で準優勝できたので、もしかして、イケるかもって思ったんですけど。大きな6000の試合が増えてくると、ランキングはどんどん下がってしまいました。この2018年は1000とか1500とかをたくさん回った年でしたね。

 

それでも後半になって、やっと6000の大会に出られるようになって。最終戦のオーストラリアでは、トップシードの選手とマンオンマンやれるところまで行けて戦えました。この年は本当にタフで、すごく学んだことが多かったです。

 

特に印象にあるのは、やはり、準優勝した「Flight Centre Burleigh Pro」です。セミでディミティ・ストイル(AUS)と初めてマンオンマンの試合をやって。元CT選手だと知っていたので、試合をやる前は「勝てたら良いな」ぐらいの思いでいたんですけど、そこでディミティに勝てたことは嬉しかったです。自分も良い波乗ってちゃんとサーフィンすれば勝てるんだと思えたので、すごい自信になりました。

 

WJCで3位でフィニッシュ。
2019年のISA世界ジュニアでは個人と団体、総合で3つのメダルを獲得

 

ー2019年の成績を見ると、QSは同じく11戦出ていて、最終ランキングがジャンプアップして16位。WJCでは3位となり、ISAのジュニアU-18で4位。さらにISAの世界戦の日本代表にも選ばれました。2019年はさらに飛躍した年だと思うんですが、何か大きく変わったこととかあるんですか?

 

2019年はポイントがあったので、最初から6000とか、3000とかの試合に出ることができました。でも、まだR-1とかR-2ぐらいからのスタートで、最初の頃はなかなか思うように勝てなかったんです。後半になって、やっとトップシードから出られるようになって。そうなると必ず2スコアを残さないと勝てないという試合でしたから。その中でも冷静に勝てるようになったことが大きな成果でした。トップシードで試合のやり方とかも実地で経験できたことが、すごく良かったと思います。

 

自分だけでなく相手のサーフィンも研究しながらやっていったのが良い結果につながった

 

アボカではキャリア最高リザルトとなるQS3000準優勝を手に入れた

 

ー2月に3000のアボカ(オーストラリア)「Sisstrevolution Central Coast Pro」で準優勝で2250ポイント。この時はどんな感じだったんですか?

 

この時は最初の方はすごい運が良かったというか。自分的には全然、キメていなかったので、運よく勝ち上がっていった感じでした。最終日になってやっとリズムが掴めましたけど。

 

自分のサーフィンが出せていなかったので、どうしたらいいか悩んでいて。自分は挑戦者というか、チャレンジャー的な立場ですから、毎晩、自分のビデオを見て、波をわからろうとしてたというか。自分がこの人に勝つにはどうしたら良いか、自分だけでなく相手のサーフィンも研究しながらやっていったのが、良い結果につながったと思います。

 

脇田紗良

 

ー3月には6000のマンリー(オーストラリア)の「Sydney Women’s Pro」で5位で2650ポイント。これはどうでしたか?

 

マンリーは最初の方は波が小さくて速い波で、すごい苦手な波でした。このままではヤバイなと思って、どういう波が良いのか、海をずっと見て。それから、海に入ってここのポイントが一番キレてるとかを自分で探して研究しました。

 

それで試合に行ったら、すごい波が見えてて、こういう波が良いんだっていうのが、自分で海に入ってて初めて見えた感じでした。運ではなくて、自分で波選びもできたので、自分のサーフィンができました。

 

この頃から試合回っていて思ったのは、自分の不得意なところがあると、普通、逃げちゃうじゃないですか。でも、逆に自分から積極的に学ぼうと思うようになれていたので、ちゃんと結果が出るようになったんだと思います。

 

 

ーこの時点でQSランキングが7位とクォリファイに手が届く順位でしたけど、意識はしましたか?

 

あまりそこは考えていなかったです。大きいポイントの試合が後半に残ってるから、全然、逆転されるというのがわかっていたので。自分としては、どれだけ前半で稼いで、後半でトップシードから出れるかを考えていました。

 

この年の当初の目標は30番以内でしたし。試合で1ヒート、1ヒート集中して考えてやっていました。毎試合このポイントが必要だからとかじゃなくて、どれだけ今の順位をキープできるかみたいなことに精一杯でした。

 

 

 

 

他の日本人選手が良い成績を残していて、焦りがあったんだと思います。

 

 

ーそれで2020年を迎えました。今年はフロリダの代わりに中国の5000があって25番。3000のアボカ(オーストラリア)で9番。5000のニューキャッスル(オーストラリア)が37番、チャレンジシリーズもマンリー(オーストラリア) は25番という結果でした。この前半、4戦についてはどう分析しますか?

 

中国は1コケでしたね。波選びが全然良くなくて。アボカではこれからだと思ったんですけど、その後のニューキャッスル、マンリーはガタ落ちでした。自分でも敗因はわからないんですけど。

 

中国の後、オーストラリア は毎週、毎週、試合があって、立て直す暇もなかったですね。他の日本人選手が良い成績残しているのに、自分は出遅れたみたいな。やはり、焦りがあったんだと思います。今、考えると波選びもちゃんとできていなかったし、変な波ばかりに乗っちゃっていたなって思います。

 

 

ーそこはメンタルの問題ですか?

 

うーーん。メンタル。。。サーフィンは2019年よりは、今の方が調子いいのかなって思っていたので。自分でも空回りというか。それプラス、勝てなくなっちゃったので。逆にもっとやんなきゃ、やんなきゃっとなって、すごい焦りが出て自分を見失っていたんだと思います。

 

次のチャレンジシリーズのニュージーランドでは、やってやるという気持ちだったんですけど、コロナで試合が無くなっちゃったので、何もできず終了となってしまいました。何とも言えないんですけど、今はポジティブに考えて、リスタートできるんだと考えるようしています。このオフの時間を利用して、自分に足りないところをもう一度鍛えるようにしたいと思っています。

 

 

コーチがいても、海での判断は最終的には決めるのは自分。

 

ーコーチとかはいるんですか?

 

今のところはいません。前にお父さんに一緒に回ってもらって、コーチとかしてもらったんですけど。アドバイスもらうと、どっかでその人のせいにしてしまう自分がいるんですよね。最終的に決めたのは自分ですけど、こういうアドバイスがあったからって、思ってしまうんです。

 

コーチがいても、海での判断は最終的には決めるのは自分じゃないですか。自分はサーフィンがまだまだだと思うので、それならまず自分で考えて、その決断がちゃんとできるようになるまで経験を積みたいんですよね。コーチがいないなら、全部の責任は自分になるので。そういう思いが無くなるまでは、自分でやっていたきたいなって思います。

 

ートレーニングはどうしていますか?

 

ハワイではマヒナ(前田)のトレーニングを週に1、2回行くぐらいでした。なので、今年に入って、トレーナーさんと一から始めました。

 

実はぎっくり腰を今まで4回やってしまって。その治療も含めて骨盤矯正をしながら、基礎トレーニングしています。特に腰回りとお尻、下半身が多いですね。自分は脚力が弱かったので、足から板に力を伝え流動作を繰り返しトレーニングしています。

 

ボトムターンの時、前までは突っ張っている感じがあったんですけど、今ではそれが無くなって、リラックスできるようになりました。なので、重心を下げてボトムターンできるんです。自分の動画見てもボトムターンの力んでいる感じが無くなったと思います。

 

 

CT入りするまでは自分の時間を全て費やすつもりです。

 

ーCT(チャンピオンツアー)に入って、チャンピオンになりたいというのが夢と聞きましたたけど、そのために何をしていますか?

 

自分が小さい頃から、CTには24、5歳までには入っていたいというのがあって。それまでは自分の時間を全て費やすつもりです。身体作りが完璧にできるまでは「3年ぐらいかかる」とトレーナーさんからは言われているので、それまでは基礎をしっかりとやっていこうと思っています。

 

お父さん(脇田貴之)からは「CTに入っても、その波に乗れる技術が無かったら入ってもしょうがない」って言われてて。大きな波から小さい波、どんな波でもサーフィンできなければいけないですから、まずは苦手なビーチブレイクを克服しようと思っています。

 

あと毎年、冬、ハワイに行ってるので、大きい波ももっとトライしていけたらとも考えています。お兄ちゃん(脇田泰地)からは「もっとイケるのに。イケないかなって、自分で押さえちゃっている」と注意されるんですけど、自分は自信がないとトライできないタイプなんですよ。

 

だから、自分的にはトレーニングでちゃんと足腰つけて。ハワイでもプールでブレストレーニングとか、そういうのをきっちりやってから、やりたいなっていうのがあります。自分は次はこうするって、この次はこれをやるって、計画してやっていかないと気が済まない性格なんです。

 

 

 

 

CT選手も出ている中で金メダルが取れれば、それはそれで世界チャンピオン。

 

ーオリンピックについてはどう思っていますか?CTとは違いますよね。

 

オリンピックには出られたら、嬉しいです。ワールドツアーはサーファーの人しか見ないじゃないですか。でも、オリンピックだとサーフィンを知らない人も見るので、そこが違うというか。スポーツとして認められたサーフィンがオリンピックという舞台で、もし金メダルが取れたらすごいことだと思うし。CT選手も出ている中で勝てることができれば、それはそれで世界チャンピオンなのかなって。

 

それに実際、CTで戦うためには、まずポイント取ってランキング上げて、クオリファイしないと戦えないじゃないですか。来年のオリンピックならば、今、そこで戦えるチャンスがあるんです。それに今はまだ誰にもチャンスがあります。

 

だから、このチャンスを掴んで戦ってみたいと思います。それにオリンピックで自分のやっているサーフィンの素晴らしさを伝えることもできるし、もっとサーフィンを理解してもらえると思うので。

 

 

宮崎の ISAでは納得できる結果を残せずに涙を飲んだ。

 

 

ー昨年の宮崎のISA世界大会で日本代表入りしました。オリンピックやCTを身近に感じることができた大会だと思うんですが、どうでしたか?

 

 

自分は満足いく結果は出せなかったんですけど、日本チームで言えば、男子と一緒に行動したことで学んだことはたくさんありました。特にカノア(五十嵐)のサーフィンに対してのすごい熱意というか、何かプロとしての姿勢みたいなものを教わりました。

 

iPhoneのホーム画面とかに何か書いたものを貼ってあって「これ何なの?」って聞いたら「自分の目標だよ」って、隠さず教えてくれたり。試合のやり方とか「紗良はこうだから、もっとこうした方がいいよ」とか「その考え方は、変えた方がいいよ」とか、すごいアドバイスをくれました。

 

舜(村上)とかも初めて一緒に試合に行ったんですけど、試合に対しての集中力とかがすごいと思ったし、メンバー全員から学んだことが多くて、とても勉強になりました。

 

あとは、その初めてステファニー・ギルモアの試合を生で見たので感動しました。だから、すぐ写真を撮りに行きました(笑)。それをインスタに載せたんですよ。「ありがとう」って。そうしたらメッセージが返ってきて「紗良はサーフィン上手いから、また試合するときは今度、ツアーでね」って返事が来て。もう嬉しくて、スクショ100回ぐらい撮りました(笑)。

 

 

ー憧れているのはステフ(ステファニー・ギルモア)なんですね。サーフィンスタイルも目指しているのですか?

 

ステフは綺麗、カッコ良いっていう感じじゃないですか。カリッサ(ムーア)はカッコ良くてパワフルだけど、ステフはどの角度から見ても綺麗です。

 

自分は綺麗で華麗なサーフィンをを目指したいんですけど、やはり背が小さいので。もう、3年ぐらい伸びていないです。母(脇田小百合)は「最近、トレーニングしたおかげで、大きくなったかな」って言ってくれるので、もしかして伸びてるかも(笑)。

 

ただ、どうしても背がある人に比べるとパワーが無く見えちゃうので、パワーはすごいつけたいなっていうのはあります。でも、「パワフルだね」って言われるより、ステフみたいに、どっから見ても「綺麗なサーフィンだね」って言われたいんですよね。

 

ーCTに入って、世界チャンピオンになると同時に「憧れられる選手になりたい」とも聞きましたけど、それは何でですか?

 

その競技ですごい選手だとしても、自己中でわがままではダメだと思うんですよね。憧れられる人というのは人格者であって、その人が積み重ねてきたことが、人を魅きつけるというか。積み重ねて来たからこそ、言葉に重みがあるし、それを知ることで、生きていく上でのヒントになるというか。

 

そのステフが自分に接してくれたように、すごい優しさとかがあるからこそ、自分もその人みたいになりたいって。もっとその人に近づきたい、だから自分も頑張ろうって。そういう影響を与える人に自分もなりたいんです。

 

次のジェネレーションとかから、そう見られるような存在になって、自分が学んできた苦労してきたことを伝えていけることができれば、その人を応援することになるからです。それを自分がつなげていきたいというか、教えたいというのがあります。もし、それがその人の力になれば、それはとても光栄なことだなって思います。

 

8歳から12歳の4年間、ハワイにいて、U-11で2年、U-14で2年、ハワイ代表で出場しました。

 

 

ーさて、ここで話題を変えて。生い立ちについてですが、4歳でサーフィンを始めてやって、本格的には6歳からスタートしたと聞きました。まず生まれはどこですか?ハワイの印象がとても強いんですけど。

 

生まれは日本です。ハワイは小学校3年生までは、冬の3ヶ月間だけ通っていました。ビザの延長をして、4、5ヶ月いることができたので、年間の半分ぐらいはハワイにいました。それから8歳の3年生から12歳までは、ずーっとハワイにいました。

 

ーハワイに8歳から12歳の4年間いたんですね。サーフィンの環境は日本と大きな違いはありますか?

 

サーフィン の環境はめちゃくちゃ良かったです。エフカイとかで普通に海に入っていると、隣にケリー(スレーター)がいるんですよ。波が小さい時に入ってたりすると、横で話しかけてくれたり、板を押してくれたりして。

 

でも、最初はスケートボードをやっていたんです。サーフィンをやっていない6歳から8歳ぐらいまでです。スケボーでカリフォルニアに1人でキャンプに行ったりとか。その時はプロスケーターになりたかったんです(笑)。

 

でも、8歳で再びサーフィンも始めて、アマチュアの大会とかにも出たりしました。ハワイにはHSA(ハワイステートアソシエーション)というのがあって、ハワイ各島で代表決めて、全員集まって2位までに入ると、アメリカのステートチャンピオンシップ(日本でいう全日本)に出れるんです。そこでハワイの代表にサーフィンで選ばれるようになって、U-11で2年、U-14で2年、ハワイ代表で出場しました。

 

ただ、アメリカでは思うような結果は残せなくて。セミファイナルでは相手がキャロライン・マークス、アリッサ・スペンサー、キラ・ピンカートンとか。そういうセミだったので、一生勝てないと思ってました(笑)。本大会には年代は違うんですけど、ブリッサ(ヘネシー)やタティアナ(ウェストン・ウェブ)も代表で来ていましたから、すごく勉強になりました。

 

やはり今、CTに入っているブリッサは、昔からアマチュアの世代でも圧倒的に毎回、優勝してる人だったので、小さい時から試合できていたのは、自分にとってすごいことだったんだなって思います。

 

いまQSツアーを回っているメンバーも、その当時、一緒に戦ったりしたメンバーなので、初めて行く場所でもみんなと話ができるのは、すごいプラスでした。そういう意味で、ハワイでの環境はとても良かったと思います。

 

 

ー学校の勉強はどうですか?

 

 

学校は冬だけ行っている時は、2歳からプリスクールに通っていました。ただ、授業は英語なので、1年生(7歳)ぐらいまであまりできなかったので、ずっと泣いていました(笑)。セカンドランゲージの授業が別にあって、テストで500点中、300点以上取らないと抜け出せないんですよ。それを4年生(10歳)まで続けてやっとパスできて、セカンドランゲージの授業がなくなりました。

 

学校では基本の4教科(数学、国語、理科、世界史)にパソコン、家庭科、体育、美術などの中から3教科を自分で選択して教室に通うというスタイルで、中1から大学システムみたいな感じでした。それも数学とか国語とかはレベルが4段階ぐらいに分かれていて、それを早く終わらせれば無くなるんです。だから、中1の時にレベル3ぐらいから入って、あと2年ぐらいやれば履修しないで済むんです。高1になったら数学はやらないで良いみたいな。それでアメリカの方は2年前に卒業しました。

 

今は高校は日本で通信で通っているんですけど、アメリカと全然、違っていて。数学はアメリカの学校では得意だったんですけど、やり方が違うので、わかるけど、わからないです(笑)。それに特に漢字が大変で。今はだいぶ書けるようになりましたけど、人の倍時間がかかります(笑)。あと古文も苦手です。何を言っているのかわからないです。

 

 

 

試合に向けての取り組みとか、日本の真面目なところを学ぼうと思いました。

 

 

ーハワイでのサーフィンの経験を10段階で表したら、自分に与えている影響はいくつぐらいですか?

 

7ぐらいです。でも、改めて成長したと思うのは、日本のJPSAを回ったことだと思うので、そこは日本が3割占めているのかなって思います。

 

日本に戻って初めてジュニアの試合を見た時に、みんなすごくてびっくりしたんです。試合の前からもう話さないみたいな。話しかけないでオーラが出ていて、試合に向けて超集中しているのを見て、すごい驚いたんですよね。

 

ハワイだと試合の最中とかも、割とみんな楽しんでやるというか、もうHave Funが第一条件みたいな感じなんです。でも、日本はザ・コンペティターという感じで。今まで楽しくサーフィンしてきたんですけど、みんなの試合に向けての真面目な姿勢に「こうなんなきゃ」って、その時、素直に思いました。

 

初めて日本でジュニアに出た時は、そのジュニアの1戦しか出なかったんですけど、次の年にJPSAのプロトライアルに出て13歳でプロ資格が取れました。2016年のWSLとJPSAの田原の大会ではファイナルまで行けて、2番になれたんです。

 

でも、優勝できる可能性があったのに2番で悔しくて。敗因は波とかが見えていなかったのが理由でした。それでビーチブレイクの経験が足りないんだってこともわかって、16歳の時にJPSAをフル参戦(2017年)しようと決めたんです。

 

自分の苦手なビーチブレイクを日本で克服することと、コンペティターとして試合に向けての取り組みとか、日本の真面目なところを学ぼうとその時に思ったんです。

 

ただ、今、思うのは、QSとか回ったら試合続きとなるので、楽しむとういうのが凄く難しくなってくるんですよね。だから、アマチュアでまだ小さい頃は試合の結果は気にせず、楽しんでサーフィンをしてほしいなとも思います。

 

 

ー続いてジェンダーについて。多様性の時代になって、WSLもいろいろ改革を行っています。女子の10000の試合ができて、CTは賞金額も同じにしたりとか。そのことについてはどう思いますか?

 

やはり、去年、初めての10000とかができて。男子はずっとあったのに、女子はなかったのでそれは嬉しかったです。それがあったからこそ、アムちゃん(都筑有夢路)もCTに入れたし。その10000とかは自分にとって良いことというか、協会はそうあって欲しいです。

 

海に入るサーファーで言えば、いろんな人がいると思うんですよね。いろんな個性を持っている人がいて、そういう人たちとそのサーフィンで繋がってるというか。年上の人だったり、自分より全然小さい子だったり、それがサーフィンでつながっているので、自分は今まで区別されていると思ったことはないです。

 

いろんな人と触れ合っていくと、すごい吸収することが多いというか。中学の時に一番仲の良い人がゲイの人だったのですけど、その人と一緒に中学校行っていて、それがおかしいとか思わなかったですし。いろんな人たちがサーフィンに入って来て、ミックスされて、その人たちと一緒にサーフィンすることで、みんなの見方も変わってくると思います。男としてとか、女としてとかではなくて、一人一人の個性で見ることが大事なんだと思います。

 

 

家族みんなの支えがあって、ここまで来れたと思っています。

 

 

JPSA初優勝は家族で喜びを分かち合った

 

ー最後に家族について聞かせてください。

 

サーファーの脇田貴之はすごい尊敬しています。でも、お父さんになると、うるさい部分があります(笑)。コンペティターだから、すごいストイックなんだと思います。お父さんはみんなが自分と同じ考え方をしてると思っていので、自分のことを100%理解してくれると思っているんです。だから、理解されないとすごい激怒するんですよね。お父さんは頑固です(笑)。でも、自分も頑固なので、頑固と頑固がぶつかって、よく爆発します(笑)。

 

 

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お母さんはいつも一緒にサーフィンしているので、すごく感謝しています。あと試合の時とか、一緒にいて安心するというか、落ち着く存在です。ご飯も作ってくれるし、最強です(笑)。

 

 

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お兄ちゃんは、うーん、めんどくさい(笑)。でも泰地がいることで、サーフィンのことも教えてくれるし「こうした方がいいよ」って、そばで言ってくれます。あと泰地の周りの友達(チームMobb)が、妹みたいに接してくれて。いろいろ教えてくれたりするので、そういうところはお兄ちゃんがいて、ラッキーだったなって思います。

 

サーフィンの環境を小さい頃から作ってくれたのが、お父さんとお母さん。いろいろぶつかることもありますけど、家族みんなの支えがあって、ここまで来れたと思っています。こうやってサーフィンを続けることができたことに、とても感謝しています。

 

それにスポンサーや応援してくれるファンができたことが、自分にとって支えになっています。コロナで大きく変わってしまった日常ですけど、みんなのおかげで辛いことでも頑張ろうと思えるようになりました。だから、自分の頑張る姿でみんなの力になれたら、とても光栄です。

 

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脇田紗良。

偉大なる脇田貴之を父に持ち、母、兄もサーファー。
幼い時からハワイを経験。
恵まれた環境で育った。

しかし、与えられた環境を過信せず自分の感性を信じた。
短所よりも長所を見ること。
マイナスをプラスに変える力。

もっと上手くなりたい。強くなりたい。
才能がそこまでないから努力する。
今は経験を積みたいとも言う。

自分は負けず嫌い。
でも、辛くなったり、心が折れたことはない。
たとえ落ちてもサーフィンすれば、また楽しくなるからと笑った。

自分の弱さを知っている人間は強くなれる。
あどけない笑顔に隠された強い意思。
自分は明日への勇気をもらった。

これからも脇田紗良を応援したい。
Go!Sara!

 

 

脇田紗良(ワキタサラ)
生年月日 : 2002年10月10日
出身地 : 神奈川
身長 : 151cm
体重 : 47kg
スタンス : レギュラー
ホームポイント:千葉 / 志田下, ハワイ / ベルジー
スポンサー: VolcomLOST surfboardsDOVE surfing wetsuitsFCS、FU・WAX、
MOROCCANOIL三栄管財株式会社blancotokyoNEW ERAeuglena
好きな波 : ハワイ/ マカハ
好きなマニューバー : カービング
影響を受けた人: ステファニー・ギルモア, ミック・ファニング

 

脇田紗良オフィシャルサイト
https://www.sarawakitasurf.com/