サーフィンは人と人が繋がるための道具。享年91歳ビッグウェイブのパイオニア、ピーター・コールが残した言葉

地球上の美の全てを独り占めしたような浜・サンセットビーチ。

大波を知るサーファーたちだけではなく、水平線にしずんでゆく夕陽を知る人たち。一度でもあの浜に足を運んだことのある人なら、この言葉が大袈裟ではないということを、理解してくれるだろう。

しかし、産業革命が始まって以来、世界中のどこかで、あるべき自然が今日もまた一つ、また一つと消えてゆく。そんな人類のフットステップは、ここ30年もの間、サンセットビーチだけではなく、ノースショア全域に、近寄っては去り、近寄っては去り、を繰り返している。

「社会的動物の人間という人種は、サーフィンという行為を通して、人と自分と繋がっていくんだ。その大切な場所、波乗りの場の海が、個人的な報酬の為に、破壊されるなんて、許される行為ではない!!俺の眼が黒いうちは、俺がノースショアを守るんだ!」

カリフォルニア州からハワイノースショア、サンセットに移り住んだピーター・コール氏は、サーフライダーファンデーションの中心人物として、そんな開発の手からノースショアを守ってくれた。

 

 

 

透き通る海水。果てしなく広がる青い空。永遠に続く波の壁。その先に見える夕陽。海から見える緑溢れる山。

古代ハワイと少しも変わらないノースショアの素晴らしい自然だけではなく、世界のプロたちが集うトリプルクラウンやエディーアイウカウ・メモリアル、ダフイ・シュートアウトに、地元の子供たちが集うミネフネ・コンテストは、今年2月22日(91歳)に他界されたノースショアのビックウェイバーでパイオニア的存在のピーターが、残した物であると言っても過言ではない。

そのピーターが、家族を愛し、波乗りを愛し、自分を愛し、地元を愛し、未来の子供たちを愛すという、四方八方に広がる人生の地図を、どうやって書いていったのか?

晩年、実際に私が彼の家に出向き行ったインタビューと、コスタリカでサーフキャンプを経営するジョー・ウォルシュのポッドキャストショー(http://witchsrocksurfcamp.com)を纏めたものを皆さんにシェアしたいと思う。

 

TEXT BY  EMIKO COHEN   PHOTO BY  GORDINHO

 

 

 

『人が言うほど大した事じゃないんだ』

 

 

ジョー:ピーターさんと言えば、大波乗りの名手ですよね。本物のウォーターマンである証しにライフガードも勤められ、パドラーでもあり、競泳もされていた。1950年代からですよね、ノースショアでサーフィンを始められたのは。そして1958年にマカハであったコンテスト、その時の世界大会はそれだけだっから、いわゆるワールドタイトルを獲得された。

 

 

ピーター:まあまあ、、だけど一つだけ付け加えておきたいことがあるんだ。優勝したその大会の前に、ルーアウ(ハワイの屋外パーティー)があったんだ。その時に、ビールを2ケース差し入れしたんだ。どうやらジャッジたちにそれがうけた様で。。。

 

 

ジョー:そのビールの賄賂のお陰で勝てたというんですか?!

 

 

ピーター:その通り。それがなかったら勝てなかったよ(笑)

 

 

ジョー『大学はどこに行ったんですか』

 

 

ピーター:スタンフォード。水泳の選手として活躍してたから、奨学金をもらって授業料が免除された。食費や部屋代はライフガードのバイトでまかなえていたし。スタンフォードの大学は良いところだったよ。(スタンフォード大学は、アメリカの有名大学。志願者の4%ほどの合格率という狭き門。多くの実業家や政治家が卒業生リストに並んでいる)

 

 

ジョー『そこからどうしてハワイに流れてきたんですか?』

 

 

ピーター:スタンフォードに行ってる時に数学とアートを学んでいたんだ。だけど、急に陸軍に所属することにした。21ヶ月12日と7時間だけどね。1954年~55年の間のことだ。

 

その後、学校に戻った時に教員になるための学科を選択したんだ。これがまあ教職に就くための教育っていうのは、なんともくだらないというか、お決まりのことしか教えないんだよな。一番馬鹿げた学科だよ。

 

トランプ(元大統領)をたくさん製造するようなクラスだったよ(笑)。とにかく、そこから教職を取ったんで、カリフォルニア州のファルトンにあるサンロレンゾヴァリー高校で、教えることになった。そこの教員でいる時に、サンタクルーズやスティーマーレーンなんかで波乗りたくさんしてて、とても充実した日々を送ってた。

 

このまま一生、ここで暮らすんだろうと思ってたところに、なぜかハワイのプナホウ学校(オバマ大統領やカリッサ・ムーアが卒業したハワイ名門私立校)の教頭が地元に来て、面接を受けることになったんだ。

 

長い面接の後に「で、プナホウで教える気はあるのか、ないのか?」と聞かれたんで、「家に帰ってから考えてみます」と返したら「今決めてくれ」と。その瞬間、夏のライフガードのバイトで一緒になったバジーがいかにノースショアの波が素晴らしいかを自慢していたことを思い出して、その場で「イエス」と答え、ハワイに行くことになったんだ。1958年のことだ。』

 

 

ジョー:競泳でもかなり活躍したそうですね。西海岸で一番だったとか

(0.4秒の差でオリンピック選手になれずに終わった)

 

ピーター:長距離と中距離でね。まあ、早い連中と同じくらい早かったというだけ。競走好きだから楽しかったよ

 

 

 

 

ジョー:壁に飾られてる写真は、すごく大きい波ですよね

 

ピーター:サーフフィルムの先駆者、バド・ブラウンからの贈り物なんだ。大きな波に乗る写真が欲しかったら、動画を撮ってもらうといいよ。波のもともとのサイズよりも大きくなる瞬間があるだろ。そこを停止して、写真にしてもらえばいいんだ。そうすれば大波に乗ってるみたいな自分のサーフィン写真が手に入る。

 

 

ケン・ブラッドショー、ピーター、ポール・ダン 1986年 サンセット

 

 

『リーシュコードやウエットスーツのない時代』

 

 

ジョー:どうしてピーターさんが、サーフィンの世界にのめり込んでいったのかを聞きたいんですが

 

ピーター:俺の親友のバジー・トレントとキット・ホーンと俺の双子の片割れのコーリーとで、サンタモニカでカヌーパドルを始めて、その延長でサーフィンを始めたんだ。当時はキッドとバジーそしてマット・ケビンはサーフィンがものすごく上手かった。

 

特にマットは、今で言えば、ジョンジョン。その後、そこを卒業して、V型12気筒のコンバーチブルに自分たちの板を突っ込んで、本格的な波の立つマリブまで行って、サーフィンする様になったんだ。

 

 

ジョー:サンタモニカでサーフィンを始めて、マリブに移動したんですね

 

 

ピーター:そう。時々、ベンチュラとかリンコンが冬の間にオーバーヘッドになる時があって、そこも楽しかった。ああいうワイルドな感じの波乗りが好きなんだ。ただウエットスーツは当時はなかったから、古着屋で買った、ウールの25セントのセーターをセッションの後に着るっていうのが、唯一の防寒具対策だった。

 

水温8度。パドルする時は、板の上に座ってだ。だって板から落ちた際には、一日中、体が寒さで震える。皆、冬はできるだけ板から落ちないようにサーフィンしてたんだ。』

 

 

ピーター・コール 1997年サンセット

 

 

ジョー:マリブの沖の混みようは半端じゃないですよね最近は。当時はどんな感じだったんですか?

 

 

ピーター:みんな穏やかに波を分かち合ってた感じだったな。当時は、今みたいに割り込んで乗るやつはいなかった。なにせリーシュがなかったから、一本乗って板が流されたら、泳いで板を取りにいかなきゃならないだろ。そうそう今みたいに、何本もワンセッションで乗るやつはいなかった。

 

リーシュが今の沖の混雑の原因だと思うんだよ。マリブだけじゃない。リーシュコードなんか馬鹿げてる。付けなきゃ恐くてサーフィンできない人は、最初からサーフィンをやらなければいい。沖から泳いで帰ってくることが出来ないんだったら、安全面から考えても、やらない方がいい。

 

それにリーシュを付けてると大波でワイプアウトしたときに、余計に巻かれてしまうんだ。ボードがブレイクした波に引っ張られるから、波の方に体が引き寄せられるだろ。板が離れてくれれば、ただ自分の身を波の下に置くようにするだけで、自然に波が通り過ぎてくれるから、あまり巻かれないで済む。

 

リーシュがないと確かに泳いで板を取りに行くから、乗れる量が少なくなるが、泳いで他の人が乗る波を見ながら、次に乗る波の作戦を練る時間があるだけに、質の良い波に乗れる様になるんだ。

 

 

黄色い板がトレードマークのピーター

 

 

ジョー:学生の時はどんな感じで波乗りに取り組んでいたんですか?

 

 

ピーター:スタンフォードで学生してた時代かぁ。俺は車持ってなかったんだけど、友人の車に乗せてもらって、サンタクルーズのスティーマー・レーンに週末は必ず出向いたんだ。結構、良い波だったよ。誰もいないし、まさに貸切のセッションだった。

 

シモンズ・コンケーヴの24インチの幅で、10’6”のバルサのファイバーボードの板。当時はファイバーボードなんて珍しかった。時代の先端を行くシェイパー、ボブ・シモンズが削った板だ。その板が手に入ったのは、1947年。弟に一度貸したら、マリブのピアにぶつけて折っちゃった。

 

それをシモンズが直してくれた。直してくれたのは良いけど、重くなっちゃったんだよな、それでも1958年に俺自身でその板を折ってしまうまでの11年間、その板に乗り続けていたんだよ。

 

 

ジョー:ボブ・シモンズが最初のバルサを削った人なんですか?

 

 

ピーター:当時はバルサしかなかった。一般的にベニア板はバルサにレッドウッドが混じってる物だったから、バルサ自体は珍しくなかった。彼が特別だったわけは、その板にファイバーグラスの加工をしたことなんだ。

 

元々彼はカルテック(カリフォルニア工科大学)の生徒だったから、エンジニアのバックグランドを持っていたんだ。とても明るく奇抜な上にクラシックな人で、バジー・トレントや俺やコーニーの師匠的な存在だった。俺たち車持ってなかったから彼にあちこちに連れて行ってもらったし。』

 

 

教職はサーフィンの比重は同じ

 

 

エミコ:確かピーターさんもオバマ大統領の出身校のプナホウで教壇をとられていたんですよね?

 

ピーター:そう、数学と競泳を教えていた。ジェリー(ロペス)やジェフ・ハックマン、後に政治家になったフレッド(ヘミングス)も俺の生徒。フレッドなんかは数学の俺の授業中に寝てばっかりだった。

 

もともと、やつはコアな共和党主義で、俺は逆のコアな民主党主義だから口論ばかりしてたんだが、島の知事の立候補した時にキャンペーンのスピーチに出てくれっていうもんだから、言って授業中に寝ていたことをスピーチで話したら、その後、一度も呼ばれなくなった(笑)

 

エミコ:それにしてもプナホウというハワイの中でもハイレベルの学校の教師だったのですから、その世界でその先に進もうと思わなかったんですか?』

 

ジェリー・ロペスやジェフ・ハックマン、フレッドも生徒。

 

 

ピーター:俺は生徒からは、ものすごく人気がある先生だったんだ。けど、管理職からは嫌われてたからな。波があると大事なミーティングでも出席しなかったりしたから、出世しなかったし、出世しようとも思わなかった。基本、波乗りがしたいが為の職だったから。

 

 

エミコ:プナホウで教え始めた頃のノースショア1958年ですよね、どんな感じだったんですか?

 

 

ピーター:来たのは8月だったから波がなかったけど、冬になって、ノースショアに行く様になった時、気が付いたんだが、その当時、ノースショアでのサーフィンはメジャーじゃなかった。

 

しかし、その中でも素晴らしい波乗りしていたのが、ジョック・サザーランドや、ジェリー・ロペスだった。マカハが主流のときだったけど、俺もそのシーズンで、サンセットビーチをやるようになって、、、それからサンセットビーチでのサーフィンの中毒になった(笑)

 

 

 

 

『伝説の波、伝説の人』

 

 

エミコ:ピーターさんが波乗りしていた頃のサーファーと今の時代のサーファーとはかなりの違いがあると思うんですが、ワイメアに大波が立った時の沖は、どんな雰囲気だったんですか?』

 

ピーター:バジー(カーボックス)やフレッド(バンダイク)や、リッグなどの、カリフォルニア出身の連中が多かったんだ。みんな実は大波に対して恐いと思っていたんだが、それを皆、負けたくないものだから、顔にも出さずサーフィンしていた。(笑)

 

というより争っていたんだよな。誰かがセットを乗ると、次は絶対に乗ってやるとモチベーションを高めあってた。皆、学者みたいな連中ばかりだったから、あのウネリがあそこから入ってくると、ここの岩の棚でで割れ、波の形はこうなる、、、、というように。

 

かなり分析的にサーフィンしていたんだよな。特にジョージ(ダウニング。。元エディ・アイカウ・メモリアルのコンテスト・ディレクター)なんかは学位はないはずだが、科学者のように波を研究していた(笑)。

 

 

 

 

エミコ:一番大きな波に乗った時のことを教えてください

 

ピーター:サンセットは15フィート以上になるとクローズしてしまうんで、ワイメアでの一本。25フィートから30フィートくらいはあったと思う。3人で波に乗ったんだが、バイロン・コエが肩に居て、パット・カレンが真ん中、俺は一番奥だったんだが、結局乗り継いだのはパットだけ。だけど、あの波が俺が乗った最大の波だったな、確実に。

 

エミコ:ピーターさんはいつも黄色い板を使われていたイメージがあるんですが。

 

ピーター:そうそう。いつも黄色の板。リーシュつけないから、サンセットやワイメアで波乗りする際、沖で板を流すと、相当遠くに板が流れていってしまうだろ。板を流したときに近眼なんで、明るい色の方が、遠くからでも見つけやすい。どこに泳いでいったらいいか、わかるからな。

 

 

 

『サーフィンとは、大波に乗ること』

 

 

エミコ:長年サンセットでサーフィンを続けてきましたよね。でも最近は見かけない。もうサーフィンはなさってないんですか?

 

ピーター:海には入らなくなってもう数年たったかな。。。。最後にサーフィンしたのはちょうど喉頭癌の手術を受けた後だ。。。ゴッソリと肩の筋肉をとった後だったけど、体調は良くなってきたんで、そろそろ波乗りに戻ろうと思ったんだ。

 

サンセットに8フィートくらいのファンサイズの波が割れていた時で、いつもの様にパドルアウトした。ところが肩が上がらないんだよ。肩があがらないままだったが沖に向かってパドルしたものの、結局、流されたんだよな。

 

神経が手術でやられたらしいんだ。リハビリはかなりしたんだが、上手くいかず、サーフィン辞めた。80歳の時だ。それから海には入ってない。

 

 

 

俺にとってのサーフィンはビックウエイブに乗ること。

 

 

エミコ:サンセットの8フィートとは健常者でも大変ですよ。小さい日に波乗りしたりとか他のポイントで波乗りしようと思わなかったんですか?

 

ピーター:俺にとってのサーフィンは《サンセットかワイメアのビックウエイブの波に乗る》ということなんだ。廻りからも波が穏やかなチャンズやラニアケアで波乗りすればいいんじゃないかと言われたんだが、あれは俺にとってはサーフィンじゃない。

 

ジョー:大波乗りのスキルは、地元のスティーマー・レーン(サンタクルーズ)で力をつけたんですか?

 

ピーター:俺は背が高いから、小波に似合わないっていのもあって、大波の方が、得意だったんだ。ワイプアウトも全然気にならなかった。競泳してたのも手伝ってるんだと思うが、大波に巻かれて次の波にもまた巻かれたとするだろ。

 

2本の大波に続けて巻かれる時間は長くてもたったの45秒だ。1分にも満たないんだよ。水中でリラックスできたら1分息をしないなんて訳ないだろ。

 

そう考えると何もワイプアウトしたからって、騒ぎ立てることではない。みんなに聞かれるんだが、ワイプアウトは怖かったでしょうねえとか。。全然大したことないんだ、リーシュしてないから引きづられないし。

 

ジョー:巻かれた時に上と下がわからなくなったりしません?

 

ピーター:ない、ない。水の中でリラックスすれば自然に頭は上になる。大波で溺れる人もいるけど、リラックス出来ないからだ。巻かれたときに驚いてパニックするだろ。パニックすると体が固くなるんだ。そうなると確かに危ない事になるよな。

 

とにかくリラックスすること。それができたら、巻かれるなんて本当になんてことないんだ。あまり言いたくはないが、そんな恐怖が根底にある奴らが、本当は18フィートの波に乗ったのに、数十年後に「俺、現役の時に60フィートの波に乗ってたんだぜ」と公言するようになるんだよ(笑)。

 

 

予期しない大波が来た時。その準備をしておくことだ。体力的にもメンタル的にも。

 

 

ニック(ジョーの友達):あ、それ僕のことです(笑)。

 

ジョー:沖でリラックスできる様になるためには、やはり泳力を鍛えておくのは大切なことですよね』

 

 

ピーター:もちろん、ボディーサーフィンもできる様にしておいた方がいい。カレントが強いところでどう泳ぐかとか、ダイナミックでワイルドな沖でのサーフィンでどう自分が海の一部になれるか、そういう予備練習は大切だ。だが一番大切なのは、予期しない大波が来た時。その準備をしておくことだ。体力的にもメンタル的にも。

 

 

ジョー:海の中での経験が物を言う、ですね

 

 

ピーター:そうなんだ。ダイナミックな海だから、俺はサンセットが大好きだ。サンセットビーチのあのラインナップは、世界中の波に比べても、右に出るものはない。ワイメアしかできないような大きすぎる時もあるけど、大抵はノースショアの他のポイントよりもワンサイズ大きいんだ。

 

特にノースウェストのうねりが入った時なんかは、蹄鉄型の波になって、ピークが盛り上がったところで乗れて、ボトムに降りるといつまでも果てしなくく波の壁が目の前に広がる。ほんとに良い波だ、サンセットの波は。

 

 

板は人の真似ではなく、自分が自信持って乗れるものを選ぶ

 

 

ジョー:大きな波に乗る瞬間の気持ちってどんな感覚なんですか?

 

ピーター:降りる時が、面白い。ほら、大きな波の乗る時は、とにかく思いっきりパドルするだろ、そして、一目散にボトムに降りる訳だ。波のボトムに無事に降りれたら、こっちのものだ。あとは、自在にターンが出来る。

 

(大波に乗るサーフィン写真を指差し)あれくらいのサイズのときは、ボトムに降りる前に、万が一、波のピークでワイプアウトしてまうと厄介な事になるんだよな。波のトップから波のボトムまで、そのまま空中から飛び降りる事になる。最悪なワイプアウトの定番だ。

 

俺はそのために、ワイドなノーズのボードを使った。その方が早くボトムに到着できると思ってね。ノーズ幅の狭いのが主流になってたけど、俺は、ワイドなノーズで、大きめの板の方が、パドルが早くなると信じている。しかも、ボトムに到着しやすいと俺は感じていたし。

 

結局、板は人の真似ではなく自分が自信持って乗れる板を自分で編み出すことなんだよな。もちろんパイプラインなんかは短い板の方がいいと思うが、サンセットやワイメアは長めが良いだろう。あとは、早めに立ちすぎないことだ。ボトムに近づくまで待って立つ感じの方が、リップから降らないんですむ。

 

 

 

大波に乗ると言うことは、この世の中のスポーツでも極上のものだと思う。

 

 

ジョー:なんか聞いてるだけでもドキドキしてきます(笑)

 

ピーター:成功の鍵は「乗るんだ」という意思を固めることだ。沖にいて、大波がアプローチしてきたら、何も他のことは考えず、どうやってその波に乗るか、だけに集中すること。そして、夢中でパドル、パドル、、、で、波に乗れたら立つ。それだけのこと。

 

そのあとは「楽しい」以外の表現はないな。波を乗り切ったあとは、もう天国にでも登る気分だよ。

 

 

色々言ったが、あまり考えてないんだよ、実際は。うまいやつに限って細かいことは考えてないんだ。波のどこの場所に自分が位置してるとか、考えずにして自然と体が反応するんだ。

 

大波に乗ると言うことは、この世の中のスポーツでも極上のものだと思う。

 

今でも(90歳)日々の波チェックは欠かしていない。ノースシーズンの、ノースノースウエストのうねりがサンセットに押し寄せているときは、なんだか浮かない気分になる。もうサーフィンができないという事実に耐えられない気になってしまうんだよ。だけど、波が悪いときは、なんとも思わないが(笑)。

 

 

 

 

『次世代へ繋げたい思い』

 

 

エミコ:ピーターさんは、日本の大林組の開発の時にも反対派として活躍されていましたが、常に環境問題にも力を入れていますよね。

 

ピーター:からくりは政治家との絡みなんだ。お金持ちが開発しようとしたときに、なぜか開発できないはずのアグランド(農用地)が商用地に変わってしまう。大富豪たちは、お金で政治家を買い、法律までも変えてしまうんだ。そしてホテルなどを建てようとする。

 

大林の時は、ちょうど俺たちが反対派として頑張っているうちに日本経済のバブルが弾けて大林の方が開発から手を引いたんだ。

 

考えても見ろよ、もしホテルがノースショアに立ち並んでいたら、渋滞も今以上に激しくなっただろうし、汚水で海が汚れてしまっていたかもしれない。この先はどうなるかはわからないが、俺の眼が黒いうちは、自然を守るために出来るだけの事はしていこうと思ってる。

 

 

サーフィンはあくまでも遊びであることを認識しておくこと。

 

 

ジョー:ご自身はもうサーフィンから引退されたものの、かなり長いこと、サーフィンされていましたよね。80歳までとは驚きます。生涯サーフィンを楽しむ秘訣とは?

 

 

ピーター:俺の場合は、教職をとっていたってのが良かったと思う。午後2時半には仕事が終わるから、そのあと、サーフィンに行ける十分な時間があったからな。

 

一度ネイビーにいたときは、朝5時半からのシフトを選んでいたから、そのときも午後1時半には仕事終わって、海に行けた。波乗りを続けられた裏には、「波乗りが可能な仕事を選んでいた」というところにあると思う。

 

ただし、生涯波乗りを楽しむ一番大切な鍵は、「サーフィンはあくまでも遊びであることを認識しておくこと」。決してハマりすぎないことだ。ハマりすぎると、いつかは飽きて辞めてしまうのが常だ。波乗りを優先するがばかりに家族も持たない奴らもいる。

 

 

 

サーフィンの醍醐味というのは、波に乗ることだけじゃない。

 

 

 

だけど、そんな奴らは、以外と早く波乗りを辞めてしまっているんだよな。ちゃんと妻がいて、子供を育てて、きちんと職について、、、その中で、波乗りできるスケジュールに当てはまる仕事を見つけるって言うのが生涯サーフィンをつづけていく秘訣だと俺は思う。言い換えると、人としての当たり前の生活を送ることが、一生、波乗りを愛していけるコツだと思うんだ。

 

あとは、人との繋がり。マリブで昔波乗りしていた連中は、第二次世界対戦から帰ってきた俺よりも年上の連中で、波乗りができることを心から楽しんでいた。そういう雰囲気で波乗りをしている時に学んだんだ。サーフィンの醍醐味というのは、波に乗ることだけじゃない。

 

 

水泳の時もそうだったが、人と人とが同じ目的で関わり合う楽しさっていうのがある。それを人生の中で感じる事が出来たことは、本当にラッキーなことだと思ってる。』

 

 

エミコ:ピーターさんは、いろいろな部分でコダワリを持って生きてきたんですね。

 

 

ピーター:エゴが強いともいえるのかもしれない。が、人間ある程度のエゴがなければ、何も成し遂げることが出来ないよ、バランスの良いエゴを持つことは大切なことだと思うよ。

 

 

 

 

 

2022年7月9日。太陽が燦々とサンセットビーチの海を照らす中、パンデミックで後回しにされていたピーターの追悼式がようやく行われた。

 

彼の家族、親戚や友人だけでなく、集まった人たちの中に、ジェイミー・スターリン、ランディー・ラリックなど、サンセットの名手と言われる人たちも参列した。式の第一部は、ピーターの思い出話が息子や友人から語られ、第二部は、皆で、彼がこよない愛したサンセットビーチの沖までのパドルアウトが行われた。

 

 

「俺が死ぬことを悲しまないでくれ」と最後に息子たちに残した彼の言葉に従い、思い出話のほとんどは笑いを誘うものだった。が、彼を看取った医師の言葉があまりにも心に響いたので皆さんにシェアしたいと思う。

 

 

 

サーフィンというのは、人と人が繋がる為の道具である

 

 

「僕の親父はアルコール中毒だったから家の中はメチャクチャでした。常に暴言と暴力が溢れていて、そんな中で育った僕は、人生の目的を見つけられることが出来ないまま、サーフィンの世界にのめりこみました。

 

当時、まだ若かった時のことです。ピーターに出逢ったんです。サンセットビーチに大波が割れる時、まだ下手くそな僕の横には、ピーターがいたんです。突然のセットで僕は、ものすごく巻かれてしまい、ゼイゼイしているとピーターは「お前、まだ準備できてないな、、上がった方がいいぞ」と言ってきたんです。

 

その後も、彼は僕をまるで自分の息子のように、色々なことを教えてくれました。一番、最初に教わったことは、「波乗りする同士の安全をお互い確認し合うこと」「他人の板が流れてきたら、必ず拾うこと」この二つでした。

 

サンセットの大きい時に板が流れると、隣の島まで流されていってしまう可能性があると。。。僕の両親がそんなだったんで、理想の大人が近くにいなかった分、ピーターや彼の波乗り仲間のフレッド(バンダイク)にかなり影響を受けました。

 

彼らを見ていて、コミュニーティーの為に役立つ人間にならなくてはと、医師になる決意を固めました。リーシュのない時代、サーフィンの大会なんかもない時代、サーフィンというのは「人と人が繋がる為の道具」であると言うことをピーターから教わりました。」

 

 

 

大切なことを残してくれて本当にありがとう。

 

Rest In Peace ピーターさん!