マーティン・ポッター来日インタビュー。ぼくのサーフィン人生とプロサーファー成功の鍵。

ポッツの愛称で知られるマーティン・ポッターINTER STYLE 2020に来場。時代を先取りするエアリアルといった革新的なマニューバを取り入れたサーフィンで、80年代から90年代のサーフシーンを席巻した彼に「NOW AND THEN」を聞いてみた。

 

今回は、「ドントパニック」のオフィシャル・イメージキャラクターとしての来日ですが、ビジュアルもインパクトのあるもので、久しぶりにこのような形で広告に登場している気分はどうですか?

 

POTTZ:プロ選手として活動していた頃は、広告で使われるのは慣れていたんだ。でも少し時間が経ってしまったので、少し緊張している。でも少しづつ慣れてきて楽しみながらやっているし、孫社長とのリレーションシップにすごく感謝しているよ。

 

来日は何年ぶりですか? 

 

POTTZ:確か最後に来たのは96年か97年だから24年ぶりぐらいかな。

 

久しぶりの日本はどうですか?

 

POTTZ:前回来日した時からは、かなり時間が経っていたので少し緊張していた。時間が経ちすぎると、全く姿を変えてしまっていることがあるけど、日本は美しいままで期待を裏切らないものだったよ。

 

今はどこに住んでいるんですか? サーフィンはどこでやることが多いですか?

 

POTTZ:フランスに住んでいたこともあるけど、2002年からオーストラリアに住んでいて、今はメルボルンにいる。サーフィンは、ベルズでやることが多い。コンテストで訪れるビーチだけど、ナショナルパークも近くにあって、人も少なくて大好きな場所なんだ。

 

 

2歳のときに南アフリカのダーバンに移住したポッツは、10歳で故郷ダーバンのビーチでサーフィンを始めた。そして15歳までに、彼はハワイのノースショアにパイプラインで20フィート以上の波をサーフするまでになっていた。

 

人生にはターニングポイントがある。その時、その場所にいた自分の決断で人生が動いていく。

 

サーフィン歴5年でプロになるなんて信じられない。そのサーフィンスキルはどこで磨いたんですか?プロになるまでに手助けしてくれたのは誰?コーチとかいたんですか?

 

POTTZ:僕は10歳の時に初めて海を見たんだ。それまで水泳を真剣にやっていたんだ。サッカーやラグビーといった、みんながやっているスポーツもやっていたんだけど、サーフィンと出会った瞬間に「これだ!」て思って虜になってしまったんだ。それからプロになるまでの5年間は毎日のようにサーフィンをしていた。

 

15歳の時に南アフリカの組織がたまたまサーフィンのコンテストを開催したんだ。競技サーフィンを全く知らなかった自分には衝撃だったね。それに参加したら、いきなり優勝してしまった。そこからスポンサーシップなど、自然と決まって、そこから自分の人生が逆転した感じだったよ。

 

人生にはターニングポイントが必ずある。自分がその試合に出てなかったら、この道を歩まなかったかもしれないと思うんだ。右と左にドアがあって、そのドアのどちらを選ぶかは自分で、その時、その場所にいた自分と出来事が重なって人生が動いていく。

 

今回の話も、たまたまハワイでドアを開けたら孫社長が道を歩いていて、声を掛けられたんだ。自分はミーティングもあって時間がなかったんだけど、5分だけ話をした。そこから今回の「ドントパニック」の話が始まったんだよ。どんなタイミングで、どう人生が変わるか分からない。そういう出会いがあったから、今ここにいるんだ。

 

上手い人のサーフィンをひたすら見ていた。どのタイミングで、どんなラインを描くのかって。

 

そんなポッツは、1989年に6回のツアー優勝を果たした後、世界チャンピオンになった。それはサーフィンを始めて僅か14年での出来事だった。

 

POTTZ:当時サーフィンを誰かに教わったわけではないんだ。まだサーフィンはスポーツとして確立されたばかだったから、自分は上手い人のサーフィンをひたすら見ていた。どのタイミングで、どの波でどんなラインを描くのかなど、じっくりと見て勉強したんだ。

 

当時はサーフィン雑誌の表紙を数えられないほど飾った。月刊サーフィンライフ

 

15歳の子供には凄く負担だったけど、大きな学びの体験だった。

 

9年間のツアー生活を経て、獲得したワールドタイトル。もっと早く取れるはずだったというコメントも見たけど、当時はどんな風に感じていた? 

 

POTTZ:9年間は長い道のりだったよ。15歳でプロの試合に勝って、そこから色々な国に行くようになった。初めて訪れる場所で、運転免許もなく、チームマネージャーもいなくて、誰かが旅の手配をしてくれるわけどもない。空港から海までどうやっていくのかも分からず、全て自分でやらなければならなかった。それが15歳の子供には凄く負担だったけど、大きな学びの体験だった。何度もやることによって、慣れてはきたけどね。

 

9年かかって、いろいろな経験を経て、それを手に入れることができたんだ。

 

家族から離れ、異国の地に行き、自分でマネージして、心の不安定も自分でコントロールしなければならない。もちろんサーフィンが出来なければ、話にならないけど、サーフィン以外のそういったことが出来なければ、プロとして活躍はできない。

 

家族がいない異国の地で色々なことを自分一人でやらなければならない。そのプレッシャーとストレスと色々なことが重なる。プロサーフィンだから上手い人はたくさんいる。でもそこが上手く出来なければい追ていけない。だから両方が大事で、それが出来たからこそ成功できたんだと思う。

 

 

 

 

「Pottz」は、フローターやエアリアルなどのリスクの高いマニューバーを行うことでコンペティション・サーフィンを再定義。彼のサーフィンで、よりビッグでクリティカルなマニューバーに高いスコアが与えられるようになった。ポッツがモダン・サーフィンの基盤を作ったと言える。

 

ワイルドなルックスで圧倒的な存在感だったポッツは、ラディカルなサーファーの代名詞的存在となっていた。

 

自分のライバルは、親友でもある2度の世界チャンピオンのトム・キャロルだね。

 

 

当時ライバルだと感じていたサーファーは誰?

 

POTTZ:自分の世代では、4度の世界チャンピオンであるマーク・リチャーズにみんな憧れていたね。トム・カレン、マーク・オクルーポ、ゲイリー・エルカートン、バートン・リンチ、ダミアン・ハードマンといったワールドタイトルを獲得できる実力のあるサーファーがいたけど、自分のライバルは、親友でもあり、一緒にトレーニングしていた2度の世界チャンピオンのトム・キャロルだね。

 

自分のサーフィン人生の中で鍵を握っていたのはマーク・リチャーズってことですか?

 

POTTZ:僕の世代でいう今のケリー的存在は、マーク・リチャーズだった。彼のようになりたかったし、彼を尊敬していた。彼はサーフィンというスポーツの素晴らしいアンバサダーでもあり、ジェントルマンでサーフィンも強かった。みんなが憧れていたんだ。

 

自分はオリンピックをアマチュアスポーツで、若い選手のためのものだと思っている。

 

最後にオリンピックについてどう考えていますか。親友のケリーは惜しくもアメリカ代表を逃したけど。

 

POTTZ:ケリーについては、残念だったけど彼の中ではキャリア的には晩年でもっと若い時であれば問題なかったと思う。クオリファイのやり方も我々の慣れたやり方とは違っていた。オリンピックを運営している委員会やジャッジにしても違っていて。

 

本当に不運なことになってしまって、ケリーのサーフィン界に対する貢献度は非常に高く素晴らしいものだった。もし出場できてメダルを取れれば、彼のキャリアのドリーム・フィニッシュになったはずだよ。詳しいことは分からないけど、凄く残念なことだね。

 

オリンピックに出たければ、そのガイドラインに沿ってやるしかない。自分はオリンピックをアマチュアスポーツで、若い選手のためのものだと思っている。ブラジルからはメディーナとイタロ・フェレイラが出るけど、若い選手が出てもそこに格差があるのは一目瞭然だね。 自分の考えではブラジルが金メダルだ(笑)メディーナとイタロをビーチブレイクで倒すのは非常に難しいことだからね。

 

サーフィンは、波が大きければ大きいほどエキサイティングになるスポーツ。だから波があることを期待する。そして、選手はオリンピックに参加することに誇りを感じるんだ。それは素晴らしいことだよね。あとは波があることを願うしかないね。

 

 

 

 取材協力:: https://dontpanic.tokyo/