強過ぎた、負けないチャンピオン。日本最強サーファーの伝説をつくった男。久我孝男インタビュー

1983・85~88年 JPSAショートボード男子グランドチャンピオンに4年連続5度という日本記録を持つ、負けない男、日本最強のサーファーと言われた久我孝男。無敵の日本国内から活躍の場を海外へ移し、30フィートのワイメアで行われた「EDDIE」に日本人として初めて招待されて14位。パイプマスターズで10位という金字塔を打ち立てた。

 

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彼の活躍は雑誌で大きく報じられた。

 

その1990年の試合はエディの中でも評価の高いイベントで、ジョージ・ダウニングの息子であるケオニ・ダウニングが優勝し賞金$55,000を獲得。2位にブロック・リトル、3位にリチャード・シュミッドというビッグウェイバーたちの中で、久我孝男の偉業は高く評価された。

 

あれから30年、日本と世界との距離は縮まったのか。50歳を超えた久我が当時を振り返る。

 

月刊サーフィンライフの表紙を飾ったのは数えられないほど。
月刊サーフィンライフをはじめ、専門誌の表紙を飾ったのは数えられないほど。彼の記事が出る雑誌が飛ぶように売れた。

 

 

勝つために自分がどうしたらいいか考えたときに思ったのが一早く海外を回ることだったんです。海外のサーフィンを吸収して戦っていたから、日本に帰ってきて試合に出ても負ける気がしなかった。それが当時の自分の強さだったのかなって思いますね。

 

自分は16か17で世界を回り始めて、高校中退してオーストラリアに留学したり。その時はシドニーのブロンテビーチっていう、ボンダイの近くのビーチに行ったんですよ。そこのビーチクラブに入れてもらったんだよね。

 

 

海外のサーフィンを吸収して戦っていたから、日本で負ける気がしなかった。

 

 

当時ホットバタードのライダーだったジェイク・カーターというサーファーのうちに居候させてもらったんです。オーストラリアはビーチ毎にボードライダーっていうサーフィンのクラブがあって、毎年オーストラリア全土のクラブ対抗戦がある。今でも行われるオーストラリ伝統の大会って感じだよね。

 

その試合に出ることが出来て、その時チューブ抜けて10点出して、ブロンテ・チームが優勝しちゃったんだよね(笑)17歳ぐらいのプロになる前だったけど。乗ってたのはシングルフィンだった。自分はオーストラリアが好きで、ゴールドコーストからシドニーまで回ってましたね。あとベルズとかも。

 

ビッグ4の一人だった久我孝男がサーフィンライフの取材で訪れた新島でのバレルショット1987年
ビッグ4の一人だった久我孝男がサーフィンライフの取材で訪れた新島でのバレルショット1987年

 

昔ASP(WSLの前身)は、セカンドシードっていうのはなくって、トップ16だけが待っている感じで、あとは全部トライアルなんですよ。トライアルを5ラウンドぐらい勝ち上がるとトップ16と戦えるみたいな感じ。

 

スタビーズが行われたベルズではトライアルを勝ち上がって、デーン・ケアロハと戦ったんですけど負けて。ベルズでは2度トライアルを勝ち上がって、2度目はバートン・リンチと当たって、その時は地元の新聞とかニュースに取り上げられて嬉しかったですね。

 

でも日本ではあまり取り上げられなくて、知っている人も少ないんですけどね。その時は日本のカメラマンとか居たわけでもないし、日本人は自分一人でしたしね。そのあとですよね、修自さん(糟谷修自)とか来るようになって。日本のサーファーが海外の試合に出だしたのは。

 

自分が海外を回っていた時は一人きりでしたからね。ヨーロッパとかも一人。フランスのラカナウでやって、ビアリッツでやって、イギリス行って、そのままカリフォルニアのOPプロまで。全て一人で回ってましたからね。大変だったけど、誰もやっていないことをやっていて、それが自信になった。

 

 

久我の「勝利の赤いトランクス」は有名だった。パイプで10位になった時もこれを履いて挑んだ。
久我の「勝利の赤いトランクス」は有名だった。パイプで10位になった時もこれを履いて挑んだ。

 

 

「やられちゃう」という恐怖に押しつぶされそうだった。

 

 

百戦錬磨の久我孝男が、80年代、日本最強のサーファーと言われて、あの強さはどこから来たんでしょうか? トレーニング、世界での経験値が他の選手よりも高かった自信、生まれ持った獣のような闘争心?

 

トレーニングもトレーナーの人にメニューを作ってもらって、誰よりも早くやってましたね。実家にトレーニング用の機材とかを揃えて。サーフィンは、力を入れたり抜いたりするスポーツだから、起伏のある坂道を登ったり降りたりするのが良い。砂浜とかを走るのが一番良くないと言われてやってました。

 

自分はセンスはないので、常に努力していないとダメなタイプなんですよ。負けず嫌いとか言われたけど、トップになっちゃうと落ちるのが怖くて。それを克服するためには努力しかない。練習量しかない。だから初めから負けず嫌いだったわけじゃないんです。気が付いたら勝ち続けていて、来年はどうなんだろ、来年はどうなんだろうっていう恐怖心。努力しないと「やられちゃう」という恐怖に押しつぶされそうで、そうなっていたんだと思います。

 

日本の黄金時代を築いた久我孝男はノースで実績を積んだ。
日本の黄金時代を築いた久我孝男はノースで実績を積んだ。

 

自分の記録は自慢ではない。だから応援しているんですよね。日本人選手を。

 

全日本のボーイズ、ジュニア優勝、そしてプロ転向、グランドチャンピオンを5回獲得して、30年。当時のインタビューで若いサーファーたちの夢の世界、理想像になっていきたいと昔のインタビューでは語っていました。当時の自分と比べて、今のプロサーファーたちは、孝男君の目にどんな風に映りますか?

 

完全に追い越されてますよね。(笑)チャンピオンの数は追い越されてないけど、みんな今は海外回っちゃってるでしょ? 日本じゃないですから。自分は日本の試合を回ってから世界を目指したけど。今は世界に集中したほうが良いし、記録にこだわることではない。自分の日本の記録は自慢だと思ってないし、大原洋人とかの方がUSオープンで優勝するとかビッグタイトル取ってるから、そっちの方が全然凄いと思うんですよ。だから応援しているんですよね。日本人選手を。早く強くなってくれないかなって。

 

40年前、プロサーファーという地位は今と比べてどうでしたか? 凄くスターというか、近寄り難い存在だったような感じがしましたが。

 

今はカノア(五十嵐)とかテレビに良く出ているけど。自分も当時はテレビによく出てたし。ファンクラブとかあって、毎月一回ニューオータニでファンの集いとかありましたね。芸能事務所とかも入っていたし。いつの間にか自然消滅していたけどね。

 

 

実行委員長の蛸 操さんとコンテスト・ディレクターの久我孝男さん
今年のなみのり甲子園では、コンテスト・ディレクターを務め、実行委員長の蛸さんと久しぶりにタッグを組んだ

 

忘れられない、あのとき、あの瞬間

 

当時を振り返って本当に忘れられない瞬間ってあると思うんですが、これまでのサーフィン人生で最高の出会いって何でしたか?

 

サーフィン始めた時は、プロサーファーになるなんて思ってもみなかった。当時は遊びが海しかなかったから。実家が太東の海から近かったし。サーフィン始めたのはタニーサーフで大谷さん(大谷正一氏)が全部面倒見てくれたんですよ。ボードとかウエットとか用意してもらって。そのあとCHPに行って、CHPで蛸さん(蛸操氏)と出会って、それで蛸さんが独立してシークエンスを始めて、シークエンスに行ったって感じですね。

 

 

 

勝てなくなったときサーフィンが嫌になった。

 

サーフィン人生が変わったなって思った瞬間とかあるんですか?

 

勝てなくなったときかな。サーフィンが嫌になった。でも負けるのにも慣れちゃった。勝って当たり前とか言われ続け、それが急に勝てなくなった。そこから8年間試合を続けて、32歳の年に、やっとJPSAのオールジャパンが行われた新島で優勝できたんですよ。ファイナルは福地(福地孝行)と小川直久と関野聡。その時は涙が出ましたね。

 

その当時、薄くて細いサーフボードへ移り変わる時代だった。そのボードの変化で勝てなくなっちゃったというのはありますね。昔は結構厚みのあるボードだったのが、急に薄くなり始めて勝てなくなって。

 

自分は「フェイス」ってサーフボードで独立したんですけど、そこでシェイパーのジェフ・ブッシュマンが「これに乗ってみろ」って、厚さも幅もあるサーフボードを渡された。その板でサーフィンが復活して優勝できたんです。8年ぶりの優勝がプロでの最後の勝利になりましたけどね。

 

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サーフィンの場合、引退後の道が確立されてないから試合に出続けるしかない。

 

 

その後も選手として、試合に出続けたんですよね。プロのアスリートって引退するタイミングとが難しい。全盛期の時に辞める選手とかもいると思うんですけど、引き際が難しいでよね。

 

サーフィンの場合、拾ってくれる団体とか引退後の道が確立されてないんですよ。プロ野球とかだったらコーチになって監督になるとかあるじゃないですか。サーフィンの場合、個人プレーだから。スクールでも、大きな企業がやっているわけでもないし。試合に出ないとスポンサーも付かない。だから他の仕事をすることになるし、試合に出続けるしかないんです。実家が商売やっているとかだったらいいけど。

 

でも最近では日本でもコーチみたいなのが浸透してきている感じはありますよね。

 

でも、それだけじゃ食っていける感じではないよね。ずっと試合があるわけじゃないし。海外みたいに大きなスポンサーがあって、そのチームのコーチとかなら良いけど。日本の企業では、そういうところがないじゃない。ブラジルも昔は貧しくてツアー回れなかったけど、サンダルのブランドが大ヒットして、ブラジルの選手が世界を回れるようになって、彼らが活躍し始めたからね。

 

例えば日本だったら車メーカーでチームを作って、そのコーチングとか。個人のコーチングといっても、本当にお金を稼いでいる選手なんて一握りだから、選手がコーチを雇って食わして行くなんて難しいと思うんだよね。

 

 

エディでは世界中のビッグウェイバーたちと肩を並べて戦った
エディでは世界中のビッグウェイバーたちと肩を並べて戦った

 

 

優勝は嬉しかったけど、ビジネスって感じかな。給料もらうために勝つような。

 

 

試合とかで、あれは嬉しかったとか、忘れられないというのはありますか?

 

ベルズのトライアルを勝ち上がって、次の日からメインラウンドが始まるってときに、リンコンっていうリーフで割れる場所のインサイドでフィンを折ってしまったんですよ。調子良い板がそれしかなくて。当時フィンがオンフィンだったから、折れたフィンを海の中から探し出して、ベルズのリップカールの前にあったサーフショップの工場を借りて、ロービングから作って全部自分で修理したんです。

 

そのとき、ラジオで自分の名前が呼ばれたりして。でも結局、バートン・リンチに負けちゃいましたけどね。優勝したときより、そのベルズでの出来事が一番嬉しい思い出として残ってますね。

 

日本で数えきれないほど優勝したと思うんですけど、それよりも、そのときのベルズの方が嬉しかったということは、もう日本での試合には魅力を感じてなかったということなんですか?

 

嬉しかったけど、ビジネスって感じだった。給料もらうために勝つような。そのお金で世界を回りたいと思っていたから。サイドビジネスみたいな感じ。世界をメインに考えていたんだよね。

 

逆に悔しかったことって何ですか?

 

悔しかったことは、あり過ぎで分からないな(笑)でもエディ・アイカウかな。

 

え? エディ・アイカウって、日本人として初めて招待されて14位になったんですよね。

 

4位以内に入りたかったんだよね。1ラウンド目で4位だったんですよ。2ラウンド目で10人に抜かれちゃって14位になっちゃった。これはイケるって思ったんですけどね。あれが一番悔しかったかな。この前、マーボーさん(小室正則さん)のイベントが辻堂であって、そこにクライド・アイカウが招待されてきていて、食事を一緒にしてエディの話とかしましたよ。

 

あのような往年のスターが集まるイベントとかは必要ですよね。昔があって今がある。今の若い人に日本のサーフィンの歴史を継承していくためにも。

 

今は雑誌が衰退しちゃったからね。昔は雑誌しか情報がなくって、みんなインタビューとか読んでて、それで覚えていってた。日之出出版の「ファイン」とかも結構影響力あったよね。今は、あまりサーフィンは扱わないけど。ファインのおかげでサーフィンを知らない人もサーフィンを知るきっかけになった。流行を作り出すメディアにサーフィンが取り上げられることは大きかったよね。

 

ライブ中継は欠かさず見ている久我は、今の世界のサーフィンを熱く語る。
ライブ中継は欠かさず見ている久我は、今の世界のサーフィンを熱く語る。

 

いま一番凄いのは断トツでフィリーペ・トレードだね。

 

コーチングとかもされていると聞いたんですが、今後も続けていくんですか?

 

チャンスがあればね。カノア(五十嵐)の父親のツトムとは昔から仲が良くって。この前も日本にきたた時に会って話したよ。ちょっとアドバイスとかしたけど、凄くサーフィン良くなったよね。Jベイでも3位になったしね。

 

海外で行われているCTのライブは全部見ている。いま一番凄いのは断トツでフィリーペ・トレードだね。飛び方とかが半端じゃない。それでいてドライブも効いているし、カーヴィングも凄い。ジュリアンとかイタロも凄いけどね。

 

逆にジョン・ジョンは勝てなくなっちゃたよね。彼の得意のレイバック・スラッシュとかも、ちょっと古く感じちゃう。よっぽど凄いところでやらないと点が出なくなっているよね。サーフィンが飽きられちゃうと勝てなくなっちゃう。やることが分かっちゃうんだよね。ちょっと前までは飛ぶだけで凄いってなっていたけど、いまじゃ誰でもやってくるから。

 

日本でも子供の頃からコンペティションに参加させる親も増えていますよね。日本の将来はどんな風に感じていますか? 

 

子供の頃からチャンスが増えることはいいことですよね。親がステージをつくってあげないと始まらないしね。他のスポーツとかは子供の頃から親がやらせている文化があって層が広いじゃないですか。だからその中からトップの選手が生まれているんだと思うんです。

 

オーストラリアとかは小さい頃から多くの親がサーフィンさせて、その中から才能のある子供がサーフィンと出会ってプロになる。だから日本はそういう可能性が低いんだと思う。サッカーにしても、少年サッカーとか物凄い数じゃないですか。だから、あの中から世界に通用する選手が生まれるんですよね。あとはそれをバックアップするスポンサー面とかも重要ですけどね。

 

海外は試合とかで遠征が多かったと思いますけど、思い出に残っている旅とかありますか?

 

キンちゃん(木本直哉さん)のツナミコーリングていう映像であって、それに収録されているハワイのバックドアのチューブ。あれは凄かったな。スピッツが体に当たって痛かったのは今でも覚えてる。次の日、マイケル・ホーに「昨日の波は凄かったな!」って言われて嬉しかった。あと、同じキンちゃんと行ったフィージーも凄かった。それもツナミコーリングだったと思うけど。

 

今回OMツアー30周年記念スペシャル・ボートトリップモルジブに行くことになったんですよね。モルジブは初めてですか?

 

モルジブは、いったことがない場所だから楽しみですね。ボートトリップなんて久しぶりだし。参加してくれるサーファーとは、ずっと一緒に過ごすことになるので色々と盛り上がりたいですね。取材とかのトリップでは、南アフリカとかマダガスカルとか、タヒチ、フィジー、ニューカレドニアなんかも行ったけど。ファン・ウェイブだったら良いんだけど(笑)※限定残り4名(8/16現在)

 

取材協力:株式会社デイトラインOMツアー