巨匠ディック・ブルーワーが語る、ショートボード・レボリューションのリアル・ストーリー。
「ゴーイング・バーティカル」ディック・ブルーワー来日記念インタビュー
40年以上経ったいまでも、サーフィン界には絶えることのない論争がある。ショートボード・レボリューションにまつわる真相を巡る論争だ。
グリーノーの影響を受けた9’4″の“マジック・サム”でナット・ヤングが1966年にサンディエゴで優勝し、マニューバー・サーフィンの幕が開くと、翌67年、ボブ・マクタビッシュが通常のロングボードより2フィート短いVボトムの“プラスティック・マシーン”でショートボード化の口火を切る。
同じ頃、ハワイではディック・ブルーワーがビッグウェイブ用のガンを短くしてテストを繰しミニガンの研究に余念がなかった。さらにサンディエゴのマイク・ヒンソンはいち早くハードエッジをレール全体に施したダウンレールを開発…。
サーフィン史上、もっともサーフボード・デザインがエクスペリメントされたこの時代は、ある意味もっともクリエイティブなエネルギーに満ちた時代ともいえる。
その当時の真実を描いたドキュメンタリー映画「ゴーイング・バーティカル」の公開を前に、ディック・ブルーワーが来日した。革命をリードしたレジェンドに、実話に基づいた映画の話を交えながら、当時のエピソードを聞いた。
取材、撮影:冨田隆
今回、映画「ゴーイング・バーティカル」のプロモーションを兼ねて久々の来日を果たしたディック・ブルーワー。
シェイプ歴50年以上のレジェンド・シェイパーであり、ショートボード・レボリューションの立役者のひとりでもあり、世界中のボードビルダーのトップに君臨するサーフボード・インダストリーにおけるゴッドファーザーでもある。
もちろん、いまなおボードデザインと対峙している現役のクラフツマンだ。現在、マニューバブルに機能するサーフボードのすべてが彼からの影響を受けているといっても過言ではないほど、モダンサーフィンにおけるボードデザインの礎を築いた重鎮である。
レボリューションが起こった当時、実際にデザインの現場では何が行なわれていたのか、ショートボード化をリードしたのは果たしてブルーワーなのか、マクタビッシュなのか…。
まず「ゴーイング・バーティカル」の見どころはどんなところでしょうか?
DB: 見どころというより、この映画全体が素晴らしい。なぜなら本当のストーリーを物語っているからね。これは企業がチームライダーのために作る映像や、特定のサーファーや波をフィーチャーしたものとは一線を画すもの。
ショートボード・レボリューションについてすべてを理解することができる作品だよ。オーストラリアで企画制作されたから、ちょっとオーストラリア寄りではあるけど、当時のハワイやミニガンの話も紹介されているし、真実が語られている。
映画のなかでは、あなたとボブ・マクタビッシュがそれぞれに「レボリューションを起こしたのは自分だ」と主張していますが、お互い競っていたのですか?
DB: 別に競っていたわけではない。ただ当時からオーストラリアとアメリカのどちらがモダンなショートボードをデザインしているかという論争があったことは事実。
ボブとはいっしょにボードの開発に取り組んだことはない。それぞれが自分のデザインを研鑽していっただけ。ただときどき会ってコンセプトは交換しあったりはしたけどね。
マクタビッシュはVボトム、あなたはミニガンというデザイン・コンセプトでショートボード化を進めたわけですが、ミニガンのアイデアはどこからきたのですか?
DB: オーストラリアのショートボードに対するアイデアは、グリーノーのコンセプトを加えて、マリブ・ボードを発展させたもの。私のショートボードのコンセプトは、ガンのアイデアを発展させたもの。ミニガンもガンだ。
ビッグウェイブ・ガンとデザイン・コンセプトは変わらない。ただ小さいだけ。同じノーズとテールで、ミドルの部分を2フィートほど取り除き、縮小させたんだ。
60年代に、ニーボーダーたちがワイメアベイでとても速く滑っていたのに私は着目し、水面との接触部分が少ない方が速く進むことに気がついた。そういう意味ではニーボーダーからアイデアの一部を得たともいえる。
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