サーフウェア産業の立ち上げに貢献した、ビッグウェイブ・チャージャーでありボードビルダーであるウォルター・ホフマン氏が、7月9日火曜日、92歳で亡くなった。
「ウォルター・ホフマンが静かにこの世を去り、サーフィン界は真のパイオニアのひとりを失った。サーフボードビルダーであり、ビッグウェイブのイノベーターであり、サーフィン業界の巨人であり、献身的なファミリーマンであった彼のレガシーは、数え切れない形で生き続けるだろう。」とサーファー・マガジンの編集長ジェイク・ハワードはホフマンの知らせを受けて追悼文を書いた。 彼の死を傷み、多くのサーフィンメディアが彼の死を伝えている。
この投稿をInstagramで見る
マリブやサンオノフレといった有名なサーフスポットのあるカリフォルニアの海岸沿いで育った彼と兄のフィリップ(通称フリッピー)は、海の魅力に早くから強く惹かれていた。
第二次世界大戦中、ウォルターは海軍に入隊し、真珠湾に駐留した。サーフィン発祥の地であるハワイで暮らすという壮大な夢が実現したのだ。彼は軍務に就きながらも、ワイキキ周辺やオアフ島西側のマカハの大波でサーフィンに明け暮れた。
戦争が終結し、真珠湾の基地には余剰の救命ボートがあった。当時、サーフボードの材料として最適だったバルサ材で作られたこの救命艇を、ウォルターと友人たちはいくつも手に入れ、浮力があり軽量な木材を使ってボードを作ることができた。彼らはこのボードをワイキキ周辺の友人や地元の人々に売り、実質的に彼らの生活資金を調達していた。
戦後、兄弟2人はハワイに留まり、ノースショアで最初のビッグウェーブのパイオニアとなった。真のウォーターマンである彼らは、波が上がればサーフィンをし、波がなければ、海に潜り、釣りをし、サーフボードを作った。小さな掘っ立て小屋でビーチに住むという、サーフィンの夢の真髄を体現したような時代だった。
50年代後半になると、ホフマン兄弟はカリフォルニアに戻り、ロサンゼルスのダウンタウンで繊維ビジネスを営む彼の父の家業を継いだ。それがホフマン・カリフォルニア・ファブリックスだった。
そして、ラグナ・ビーチでサーフィンをしている時に、ホビー・アルターと出会い、その後何年もかけて世界的に有名なホビー・サーフボードを生み出し、史上初のサーフショップを立ち上げ、ホビー・キャットを発明。ホビーとウォルターは固い友情で結ばれていた。
キャピストラーノ・ビーチで今日の「サーフィン産業」と呼ばれるものが数多く生まれた。ホビーはサーフボード。彼らの友人であるゴードン・クラークは、最初のサーフボード・ブランクスを発明した。もう一人の友人、ブルース・ブラウンは、代表作『エンドレスサマー』を含むサーフムービーを制作。
さらにもう一人の友人、ジョン・セバーソンは1960年に『Surfer Magazine』を創刊した。そしてウォルターとフリッピーは、ホフマン・カリフォルニア・ファブリックスを通じて、全米に誕生した新しいサーフ・カンパニーにテキスタイルの大部分を提供していた。
アロハにインスパイアされたプリントから、手染めやバティック加工を施した生地、大ヒットTV番組「私立探偵マグナム」でトム・セレックが着ていた有名なハワイアン・シャツに至るまで、彼らはすべてを手がけていた。数十年にわたり、ウォルターとフリッピーはテキスタイル界の基礎を築いてきた。
ジョイス・ホフマンはウォルターの継娘で、サーフシーンのほとんどが男子だった60年代後半、ジョイスはホビーのサーフボードのシグネチャーモデルを持ち、当時最も優勝したコンペティターのひとりだった。
ウォルターの孫、クリスチャンとネイサン・フレッチャーもパイオニアだった。80年代から90年代にかけて、クリスチャンのエアリアルは画期的で、現在では当然のように行われているエアリアルも、当時は保守的だったサーフィンの主流派を少なからず震撼させた。
この投稿をInstagramで見る
ネイサンは今でも世界で最も熟練したビッグウェーブ・サーファーのひとりだ。そして、現在世界最高のスケートボーダーのひとりとされるグレイソン・フレッチャーから、スタイリッシュなロングボーダーであるインディー・ホフマン、そして海での生涯の冒険を始めたばかりのスーパー・グロム、レックス・ホフマンまで、ひ孫たちもサーフィンに夢中だ。彼の遺伝子が今も息づいている。
彼がサーフィンにもたらした美、芸術性、創造性、想像力とともに、その存在感と功績は波乗りのビジネスとカルチャーを永遠に変えた。彼の功績は非常に大きいものだった。彼のご冥福を祈ります。
https://www.surfer.com/news/rip-big-wave-pioneer-surf-industry-founding-father-walter-hoffman