取材、文:エミコ・コーヘン 写真:GORDINHO
Hawaiiを感じさせられる字体。風に揺られるココナッツ。
ローカルモーションに惹かれる人たちの中には、あのロゴマークが好きという人たちも、少なくないと思いますが、お目が高いです!実はローカルモーションの名前とロゴの意味、掘ってみるととても深いんです。
ローカルの意味は、地元、自分、本質。要するに、アイランダーとしての誇りと他人への慈悲、アロハを、自分の中に住まわせるということ。モーションは動き、いわゆるアクション。世の中の流れをいち早く掴んでパワフルに進むということ。
椰子の木は、崩れやすい砂地でもしっかり根を生やし折れることなく、強い風が吹いてもしなやかに揺れ、大変さよりも心地よさしか見せてない、優しさと強さの象徴という事。
だからなんでしょうかね、ローカルモーションはロングランのサーフィンブランドであること。今年でなんと45周年を迎えます。
ハワイ、オアフ島の東側には、ロコ色があまり無く、どちらかというとモダンで一般的、あまり経済的にアップもダウンもなく暮らす人たちが多く住んでいる地域があります。カイルアという街です。そこでローカルモーションの創立者であるロブ・バーンズさんは1953年に生まれました。
12歳のときにサーフィンと出会ったロブさん。最新の板を買ってもらえる環境ではなかった彼は、自分でサーフボードを製作することを決心。
必要な素材を買うためのお金を他の商売で稼ぎだし、マイボードを作りました。自分で作って自分で乗る。彼ならではの形でのサーフィンとの付き合いが始まりました。
その後、青年時代を迎えたロブさんに、サーフブランドを立ち上げる為の、ある決定的な出来事が起きました。
離れて暮らしていたロブさんの父親の家系には、詩人がいたり、、、ハイアカデミックな家系。カリフォルニアのハリウッドの世界でライターとして活躍する人もいました。自由に動ける歳になったロブさんは、そんな世界に住む叔母を訪問。ハワイとは全く違う環境を目の当たりにしたのです。
「好きな洋服を自由に、毎日のように買える暮らしが世の中には存在するんだ」。
そこで見た光景はハワイ育ちのロブさんにカルチャーショックを与えました。売る世界を変えれば毎日でも買う人がいる。それに気がついた彼は、「本格的に商売を始めたい」と思うようになりました。
旅から戻った後のある夜、彼はサーフショップをオープンする夢をみました。けれど実際には、実行する為のお金がない。財布の中にはたったの25ドルしかありませんでした。
カイルアに14坪の小さなサーフショップをオープン。
そこで3000ドルを借金し、1977年、ロブさんは、カイルアに14坪の小さなサーフショップをオープンさせました。
オープン当時の商品は、自分が削ったサーフボード5本、40枚弱のオリジナルTシャツ、24枚ほどのサーフショーツ、そしてリペアキッドとレジン。
サーフィンに興味のある友達が喜ぶようなものを集めた店でした。それが後に大成功を収めるロングランのサーフブランド、ローカルモーションの最初の一歩だったのです。
ロブさんのビジネスの展開は、他のサーフショップとは少し違いました。
コアなサーファーたちのお店というだけでなく、海を愛する人のライフスタイルに合うフレンドリーな品揃え。実際に、ハワイアンスタイルとカハラスポーツウェアとコラボレーションとしたことが、多くの人に受け入れられるきっかけとなり、あっという間にビジネスは成長。
そして、1981年。ホノルルのカピオラニ・ブルバードにお店を移転。ローカルモーションがやってきて間もなくカピオラニ通り近辺のサーフショップは次々と閉店したという事実は、当時のロブさんのビジネス戦略がいかに優れていたかを物語っています。
その後、他島やカリフォルニア、そしてブラジルや日本の海外へと進出したローカルモーション。
バラエティ豊かなチームライダーやシェイパーたち
多くの人に受け入れられるバラエティ豊かな品揃えに並行するように、バラエティ豊かなチームライダーやシェイパーたちを抱えることも、商売を大きくした要因になりました。
今までのチームライダーたちの中には、クラシックなビックウエイバーとして有名なトニー・モニーツやボビー・オーエンス。
ジェイミー・オブライアン、ブルース・アイアンズ、ドノヴァン・フランケンレイター、シェーン・ベシェン、カラ二・ロブなどの時代の先端を行くサーファーたちがいたり、7フィートのボードでスムースなマニューバーが主流な時代に超スピードで刻み360、今のサーフィンの先駆けとなった、バテンス・カラヒオカラ二もいたり。。。。
「ローカルモーションで素晴らしい出会いがあった。」ボンガ・パーキンス
そして長年チームライダーを務めているボンガ・パーキンスが、今までの思い出を語ってくれました。
「ローカル·モーションに俺は、ただ金銭面で助けてもらっただけではないんだ。人間関係や、社会の仕組みとか、、荒削りだった俺は、ローカルモーションに関わることで、ものすごくたくさんのことを学んだ。
今となれば懐かしい話だけど、ボードの先端やテールにカメラを付けてパイプで波乗りをするっていう試み(GoProが存在しない時代なので、当時では珍しかった実験)を、ウォーレン・ボルスターと組んでやってた時があって、その時の一本が(アメリカでは有名なサーフィン雑誌)Surfer の表紙になったんだ。
近代のロングボーダーの中で、Surferの表紙になったのは、俺が初めてだったんだけど、カメラマンと組んでの実験ボードだったんで、ローカルモーションのステッカーが貼られていなかった。そしたら、ローカルモーションからの、その月の給与は無し。
だけど、それで首になったのではなく、その後、アメリカ東海岸へハワイのロコモーションの代表として行くチャンスを与えてもらい、パット・ローソンとか、リッキー・キャロルとかと一緒に過ごすことができた。すっごく楽しかったな。
ローカルモーションのチームライダーだったからこそ、素晴らしい出会いがたくさんあって、サニー・ガルシアやブライアン・ケアウラナ、トニー・モニーツ、ブルース・アイアンズなどの極上のサーファー、ウォーターマンと知り合えたのも、チームにいたからなんだ。」
「家族のように、本当の繋がりを大切にしていた。」コロへ・ブルームフィールド
ローカルモーションは、チームライダーやシェイパー、店員などの関係者たちのことを「オハナ」と呼びます。「オハナ」とはハワイ語で「家族」という意味。うわべだけの付き合いではなく、本当の繋がりを大切にしてきているんですよね。その証拠となるような元チームライダーのコロへ・ブルームフィールドの言葉です。。。
「カイポ・ゲレーロ(WSLのコメンテイターでもおなじみの)が勧めてくれて、僕は14歳の時に、ローカルモーションのチームライダーになりました。懐かしいな。。。カポレイのお店であった初めてのチームライダーのミーティングのことを今でも思い出します。
オーナーのロブ・バーンズがそこに居て、順番にみんな自己紹介しなきゃならないということになり、僕は、人前で話をするのがあまり好きじゃないタイプなんで、ものすごく緊張してたんです。で、半分くらいの人が紹介を終えたくらいの時で、まだ僕の順番になる前、ラリー・バートルマンの順番になったんです。
そしたら彼は「みんな元気? 俺、ジェリー・ロペスという者です」って。。。集まってたみんなで大笑い。一気に自分の緊張が解けました。チームライダーじゃなければ関われなかった大物サーファーと濃く付き合わせてもらえたのも、ローカルモーションのオハナとして迎えられたから。
それに当時、子供だった時ですから、ボードにスポンサーのロゴが入ってること自体、COOL(かっこいい)。お金が絡まないにしても、ローカルモーションのステッカーをボードに貼れることが、誇りに思えました。
それでも自分の写真が雑誌などに掲載されると、お小遣いが入るというシステムもありました。金額もかなり良くって、カバーショットになると1000ドルで、見開きページだと500ドル、4分の1ページでもきちんと支払われる。だから、自分を奮い立たせて、サーフィンの技術を磨くだけじゃなく、カメラマンとの連絡を密に連絡を取ったりしてました。
当時、ローカル·モーションの写真の多くは、ウォーレン・ボルスターが撮ってたんですが、彼はいつも「内緒だぞ」と。まるで口癖のように言う(笑)。例えば「明日、俺は9時から水中で撮ってるからな」と電話が来たりしたんですが、最後に必ず「これは極秘のことだから、誰にも言うなよ」ってね(笑)
でも、彼はものすごくクリエイティブなカメラマンで、全力で仕事に臨んでいましたよね(ドローンのない時代)。ヘリコプターをチャーターして、上空からサーフィンを撮るなんてことも試してましたよ。
後に、トニー・モニーツが、チームキャプテンになったんですが、彼もまたとても献身的に、役目をはたしていました。特に試合に勝つ為の彼のアドバイスはとても的確でした。その時の彼からもらった言葉をメモに書き残しておけば良かったな。。。
当時、180センチの身長で60キロくらいしかないガイコツよりも痩せていた僕はトニーに「とにかく肉をつけろ」と、しょっちゅう言われました。
「うん、やるやる」と言いながら、実際に肉をつける努力をしなかったけど、今のサーファーには欠かせない事ですからね、彼は時代を先読みしていたんですよね。とにかく今思えば、貴重な経験が積めたのは、ローカルモーションにいたからこそです。」
「人との繋がり、という人生の宝を得た。」ボビー・オーエンス
サンセットの名手と名高いボビー・オーエンスも当時の思い出を語ってくれました。
「パット・ローソンが削り、僕が乗るというコンビがローカルモーションがきっかけで出来上がったんだけど、彼と絡むことができたことでグンとサーフィンの上達につながることができた。
それからフィジーに旅した時に、それがきっかけでトニー・モニーツと仲良くなれた。ワイフのタミーとも。ローカルモーションのチームメンバーでいたことで、「人との繋がり」という人生の宝を、与えてもらった。」
ハワイを代表するベテラン・シェイパーを育てたローカルモーション。
ライダーだけではなく、ローカルモーションのシェイパーとして活躍してきた人たちのリストを見てみると、例えばBK、スティーブ・ウィルソンやデニス・パングがいたり、基本を重視するベテランから、常に新しい試みに取り組むウエイド・トコロまでいました。
シェイパーのパット・ローソンとグラッサーのジャック・リーブスの手によって蘇った復刻サーフボード
そんな中でもローカルモーションを代表するシェイパーの一人であるパット・ローソンは、70年代、80年代に一世を風靡したローカルモーションを象徴するサーフボードを限定コレクションとして製作。これがKAILUA SINGLE(レッドxグリーン)’77 SINGLE FIN(イエローxオレンジ)。それぞれ価格は418,000円
パット・ローソンがハワイでシェイプの仕事をスター トした1970年代。あのディック・ブルーワーのデザインに影響を受け、パットが考案したのが「KAILUA SINGLE」。ノーズよりにワイデストポイントがあり、テールはウイングで絞った、ややシャープなラウンドピン。6’6″×20 3/4×3″ surfboards photo:junji kumano 1970年代に活躍したハワイのレジェンド、マーク・リデルやバテンスのラディカルなサーフィンを求めてデザインされた「77 SINGLE FIN」。より速く、よりハイパフォーマンスを目指すため、当時にしてはロッカーも厚みも抑えめ。スピー ドとレールワークを高い次元で両立できるデザインとして注目を集めた。6’4″x20 1/4×3’ surfboards photo:junji kumano
バラエティー豊かなシェイパーを抱えることで、裏切られない板選びができる。だから、ローカルモーションはビギナーからベテランまで信頼おけるサーフィンブランドなんですよね。いまでも世界的に有名なシェイパーの一人となった、パット・ローソンが最盛時代をこう語っています。
「ジェフ・ブースと組んで俺は、1987年ごろたくさんのボードを作った。当時はサーフィン業界にお金が溢れていて、トップ16(当時のASP世界ツアーのサーファー)が、次に何を出してくるのかを皆で競い合った時代。
いろんな形のいろんな板を、実験として、どんどん作ることが出来た。給与もらって削っていたんで、ローカルモーションの名前が主。だから自分の名前はペイントで消されてしまったりしていたけれども、惜しみなく作るということができたことは、貴重な体験だったと思っている」
そのパットが語るサーフィンの最盛時代。ローカルモーションは、日本とブラジルへ。海外へと進出したのです。蛍光色のZinkaの日焼け止めが流行ったイケイケの80年代です。
当時「ビックウエンズデー」がヒットし、日本国内で、アメリカ文化(カリフォルニア文化)に憧れる人が増えました。サーフィンもしないのに、サーファーが着るような洋服を着て、東京のど真ん中で板を車の上に着けて走る人たちも出没するという。。。
そんな彼らに「陸(おか)サーファー」という名前がついたり、サーファーカットなども流行ったり。覚えてますか? ハイレグにネオンカラーのウエットスーツ。懐かしいですよね。「海に憧れる若者たち」にピッタリ装ってくれたのも、ローカルモーションだったのです。
こうして少年だったロブさんの夢から予想もつかぬほど大きく膨らんだローカルモーション。ローカルモーションの文字の別の「空間と場所を行き来する」という意味のように、これからも、広大な青い海を感じる空間に、私たちを移動させてくれることでしょう。なんだかワクワクしますよね!!
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