ビッグウェイブのレジェンドでありパイオニアであるグレッグ・ノールが、老衰のため亡くなった。84歳だった。
「ノル・ファミリーは、家長であるグレッグ・ノールの死を重く受け止めています。グレッグは6月28日(月)、老衰のため84歳で亡くなりました」と、息子のジェド・ノールが親愛なる父の死について公表した。
「私たちは、すべての友人と家族に、この投稿とあなたのストーリー、写真、経験をあなたの好きなプラットフォームで共有することによって、父の生涯と功績を讃えていただければと思います。アロハ」と綴った。
1937年2月11日にサンディエゴで生まれたグレッグ・ノールは、1950年代に最も影響力を持ったサーフィンのパイオニアであり、起業家の一人に数えられた。
3歳のときに家族でロサンゼルスのサウスベイに引っ越し、11歳でサーフィンを始めたノールは、マンハッタンビーチ・サーフクラブのメンバーとなり、デイル・ベルジーからボードシェイピングを学び、ロサンゼルス・カウンティのライフガードも務めた。
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1954年、17歳になったノールはハワイに渡った。最初はオアフ島のマカハにいた彼は、すぐにウエストサイドの大きくて難しい波に馴染んでいった。
「マカハでの初期の数年間は、私の人生のハイライトのひとつです」と、グレッグ・ノールは1989年に出版した自叙伝『Da Bull: Life Over the Edge』の中で書いている。
「私たちが住んでいた家からは、ポイントがすぐそこに見えました。私たちの日常生活は、サーフィン、ダイビング、釣りが中心でした。波がないときは、釣りやダイビングをする。波があればサーフィンをする。学校は二の次…いや三の次でした。平均して週に数日、生活するのに必要なだけの時間を過ごしていたと思います」。
57年の冬になると、注目はノースショアに移り、ノルはビッグ・ワイメアや他のアウター・リーフで危険な波に挑む、最初のサーファーの一人となった。
1957年11月7日、ノールはワイメアベイで初めてサーフィンをした一人として記録され、後世のビッグウェイブチャージャーたちにワイメアベイを広めた。後にシールビーチのライフガード、ハリー・バーチがノールたちよりも先にワイメアの波を捕らえていたことが知られるようになったが、ノールはパイオニアの一人として記憶されている。
また、ノールはサーフィンのビジネスにも深く関わっており、初期のサーフィン映画を次々と制作した。ロサンゼルスに戻ったノールは、1965年、ハーモサ・ビーチにサーフボードの工場を開設。一時は週に200本以上のボードを生産するまでになった。
ノールは「69年のスウェル」と呼ばれる大波に乗って、愛するマカハに戻ってきた。1969年12月4日、彼の伝説的なサーフィンのキャリアの中で最高潮に達した時、彼はビーチから海に飛び込み、伝説の人物となった。
「親友の何人かは、あれは自殺行為の波だったと言っている」とノールはつぶやいた。「当時はそうは思わなかったが、今になってみると、あれはギリギリのところだったのかもしれない」。
自分自身とビッグウェイブ・サーフィンというスポーツを極限まで追求した後、ノールは自分ができることはすべてやり尽くしたと考え、静かな田舎町である北カリフォルニアの海岸に移り住み、漁師として働きながら、晩年まで精巧な木製のサーフボードを作り続けていた。
彼の残したレガシーは、永遠に生き続けるだろう。
Rest in Peace…
彼のご冥福をお祈り致します。