究極のエンジョイサーフィンを目指して、自らの生き方を構築してきたレジェンドサーファーでシェイパーの千葉公平氏。終の住処として選んだ四国を拠点に、72歳を迎えた今も彼のフィールドは世界中に広がっている。
サーフィンを通じて多くの仲間と出会い、サーファーとして最高のスタイルを確立。そして、世界中に素晴らしい波を求めて旅すると同時に、日本の波、四国の波の素晴らしさを紹介し、世界のサーファーたちとの交流を深めていった。
日本の原風景が残されている長閑な海陽町の自宅に、笑顔で迎えてくれた千葉公平氏に『サーファー千葉公平』の歩んできた道を聞いた。
瀬戸内海に浮かぶ小豆島生まれの公平さん。友人に誘われて初めてサーフィンしたのが18歳。なかなか難しくて面白かったと当時を振り返り笑顔で語った。
人との戦いが嫌になって、サーフィンをやり出した。
SURFMEDIA SM:サーフィンにハマったきっかけは、何だったんですか?
Kohei Chiba KC:子供の頃からずっと運動やっていて、クラブ入ったり、大学では日本拳法やったり、いろいろやってたけど、結局、人との戦いがちょっと嫌だったことがあって、サーフィンをやりだしたんですね。サーフィンは相手が人じゃなくて波だから。それが一番かな。あとハワイに行ったことかな。
友達と1度ハワイに行ったら、青い空と綺麗な海にやられてしまって。アルバイトしてお金を貯めて4回生になって大学を休学して、もう1度ハワイに向かいました。期間は1年2、3ヶ月かな。そこから本格的にサーフィンをやって、二十歳か二十一ぐらいの頃ですね。
日本拳法は真剣にやっていて、大学3年の時に大学日本一になったんですけど、勝っても嫌な思いをするから、もういいかなって思って。そんなことで人との戦いは嫌になってしまったんです。それでサーフィンをずっとやってました。サーフィンは素晴らしいじゃないですか。
SM:2度目に長期で訪れたハワイで、タウンに住んでいた藤沢ジョージさんと出会い、公平さんのサーフィン人生が動き始めたとお聞きしました。
KC:当時ハワイでルームメイトを探していたジョージさんを知り合いの女の子から紹介されて、二人でアパートをシェアすることになったんです。
ジョージさんは「俺は関西のやつ嫌いなんだよ」って言ってましたけどね(笑)。自分はサーフィンも始めたばかりで、ジョージさんはその当時からサーフィン上手でしたね。
アパートはクヒオ通り辺りにあって、毎日歩いてワイキキのクイーンズまでサーフィンしに行ってました。アラモアナ・ボールズとかも歩いて行きましたね。狂ったようにサーフィンしてました。
ハワイでの藤沢ジョージさんとの出会い
SM:ハワイでの共同生活の後に、二人で茅ヶ崎にサーフショップをオープンしたんですか?
KC:その前に東京の原宿でしばらく暮らしていました。それから茅ヶ崎に移って、「サンシャイン」っていうサーフショップにお世話になってました。そこに新潟から来たカメラマンの佐藤傳次郎くんとかサーフボード工場に勤める人とかがいたんですよね。
そのサーフショップにいたんですけど、ジョージさんが茅ヶ崎で店(サーフバム)を始めたんですよ。そこに自分が移る感じになって。店番やって、ご飯が食べられてサーフィン出来たら良いなって思ってやっていたら、どんどんお客さんがついて来てくれて。
でも大学も休学してたから、親に帰って来いって言われて。大学は日本拳法で日本一になっていたから特待生で卒業させてくれて、卒論はサイン一つで大卒になっちゃいました。親に感謝ですよ(笑)
ハワイ、茅ヶ崎、そして四国へ。
SM:四国にはどのタイミングで移ることになったんですか?
KC:茅ヶ崎での生活も良かったんですけど、ジョージさんが結婚することになって。全体的にみると店の規模も小さすぎるし生活できないなと思い、じゃあ一旦、自分が身を引こうかと。自分は十分世話になって来たから。
それで大阪に帰って、量販店向けのボードメーカーがあって、プレーナー(シェイパーにとって1番大事な道具)を買って、そこで来る日も来る日もシェイプの練習をしました。それで30歳になって小ちゃな自分の店を大阪につくりました。伊勢も考えたんですけど、その当時もうすでに2件店はあったから。
サーファーが作るサーファーのためのサーフボード作り
公平さんにとってサーフィンのルーツであるハワイ。冬のノースショアへは、‘80年代から2011年まで毎年欠かさず通い続けた。ハワイは自身のサーフィンの修行の場だけでなく、シェイパーとしての知見を深める目的もあった。
辻裕次郎(2014年)、西元 ジュリ(2017年)といったサーファーが公平さんのサーフボードに乗って日本のチャンピオンになった。城 純(1993,94年)も今では303のアンバサダーだ。
コンペシーンで活躍するサーフボードを作る一方で、2000年代から公平さんのサーフボードデザインは多様化。サーフィンする楽しさを叶えてくれる道具としてサーフボードを作り、自らさまざまな場所へ旅に出ること、波に乗ることで蓄積されていく感覚を形にし、36のモデルを誕生させ、幅広い層のサーファーのニーズを叶えている。
SM:シェイプの練習をしていたのはサーフショップを始める前なんですか?
KC:ずっと前です。まだ茅ヶ崎にいる時代に、いろいろなボードに乗ったんですよ。ドジさん(故・井坂啓美さん)青田(青田琢二氏)アベっちょ(阿部 博氏)YU(植田義則氏)。ドジさんの板が一番良かったなぁ。日本的な良いボードだったかな。
ドジさんに「公平、シェイプしなよ」って言われて。「じゃあ、いつかやります」って言って。
サーフィンしているだけではお金にならないからね。あの時代って手探りの時代で、他所から来たボードの真似して、そんなのばっかりじゃないすか。でもドジさんは日本用のロッカーのない茅ヶ崎とか鎌倉とかの平な波でも滑るボードを作ってた。
SM:じゃあ公平さんは、ドジさんの言葉がきっかけでシェイプを始めたってことなんですか?
KC:そうだね。その言葉がキッカケかな。
SM:本格的にシェイプを始めたのは四国に来てからなんですか?
KC:四国に工場を作ったからね。大阪で練習して、四国にシェイプルーム作ってからです。
SM:シェイパーの方は師匠がいたりすると思うんですけど、公平さんにもそういう人はいるんですか?
KC:どこかの工場に入って修行みたいのはいないかな。でもハワイのハレイワで実際にシェイプしている場を見せてくれて、教えてくれる『シェイピング・アカデミー』みたいなものがあって、それに行ったりしたね。面白かったですよ。
あとハワイではディック・ブルーワー、ビル・バーンフィールド、パット・ローソン(サーフィン界のレジェンドシェイパーたち)とかのシェイプを見に行ったたり、シェイプは見て覚えるものです。それしかない。ある程度、道具の使い方とかは教えてもらったりはするけどね。
SM:テンプレートとかはシェイパーがそれぞれ独自で編み出すものなんですか?
KC:編み出すっていうか、あれも昔のボードからずっと流れがあって、ずっと繋がってきてるから。最初に作った人から徐々に徐々にいろいろ変化しつつ、現在があるんです。でもそれにカーブを変えたりしてやっていったんだと思う。
SM:昔の雑誌広告で公平さんがドロップアウト(サーフボード)の広告に出ていたんですけど。ドロップアウトの板も削っていたんですか?
KC:ドロップアウトの工場でジョージさんのサーフバムの板も作っていたんです。ジョージさんはドロップアウトのエドさん(故・小川秀之氏)とハワイ時代から交友があって、僕も小川さんには一番可愛がってもらっていました。
SM:公平さんのサーフボード作りで一番大切にしていることは何ですか?
KC:作ることでは全部が大切。100パーセントとはいきませんけどね。やっぱりロッカーかな。20年ぐらい使っているロッカーがあるし。そこに味を加えてテールを上げてみたり、ノーズを下げてみたり。試行錯誤してやってます。
レールもそうだし、全体がつながっている訳だから。でも一番大切なのは最初に走り出すためのロッカーかな。
良いボードってよく滑りますよね。そういうことじゃないですか。わからないけれど。先輩方に聞いてください。(笑)
日本初のプロサーファーとして「ライトニングボルト」と契約
SM:ハワイ、東京、茅ヶ崎、大阪、四国とサーフィン人生を歩まれて来たと思うんですが、日本初のプロサーファーとして、あの「ライトニングボルト」と契約していた時期があったと思うんですが、それはいつ頃の話ですか?
KC:あれは湘南にいた頃かな。茅ヶ崎にいた頃。最初はマーボー(故・小室正則氏)がジェリーとフレッドシップみたいな感じでやっていたんだけど、本格的にライセンス契約した大阪のヨシダ販売という会社があって、そこから「ライトニングボルト」と契約してくれって言われて。
それで会社に呼ばれて行ったらジェリー・ロペスが来ていて、ジェリーと一緒に営業も行きましたよ。量販店にサーフボード買ってくださいって(笑)そこで2年間とか契約したかな。その時はちゃんとプロサーファーとしてご飯食べていけましたよ(笑)
米サーフィン誌に初の日本人サーファーとして掲載される
SM:それから旅人・千葉公平が始まるんですね。公平さんと言えばいつでも旅をしているってイメージがあるんですけど。当時たくさんあったサーフィン雑誌の影響とか大きかったんですかね?
KC:サーフィン雑誌のお陰ですよ(笑)月刊誌だったサーフィンライフ(マリン企画)とか特に自分に声をかけてくれたから現在がある訳で。本当ですよ。ラッキーなことにいろいろな場所に連れて行ってくれたから。幸せでした。『え?飛行機代払ってくれるの?』 そんな次元の世界だったから。自腹の旅もありましたけど、元々新しい場所に行くのが好きだったから。
SM:そんな公平さんが旅した中で一番印象に残っている場所とか波とかありますか?
KC:どこも印象的ですよ。世界一長い波のチカマにも行ったし、世界一長い河口のスペインのムンダッカにも行ったし、Gランドも行った。今ではオリンピック会場になったタヒチも3度行きました。モーレア島が一番美しかったかな。色々行ったよね。お世話になりました(笑)日本人として初めてって場所も多かったし、そういう意味でも良かった。
フランス行った時は、まだサーフショップが一軒しかなくって、どこがハセゴーなんだって聞いたら、案内してあげるよって、一緒に来てくれたりして楽しかったですよ。今なら帰れって言われちゃいますよ(笑)
SM:公平さんも年齢を重ねられて、旅に対する思いとかは変わらないですか?
旅って、リフレッシュできて新しい自分になれって、人間も新しくなった感じがするしね。これからも旅は続けていきたいと思っていますよ。
2024年はGランドも数年ぶりに行ってみたり、デリック・ハインド(元プロサーファーでサーフィンジャーナリスト)とは毎年バイロンベイで一緒にサーフィンしています。GWは303のお店を始めた頃の子供達、今ではみんなおじさんだけど彼らとモルディブに行きました。
公平さんのサーフスタイルは、どんな波であろうと、どんなポジションにいようと、波と調和した美しいスタイルをされてますが、これはどこでいつ身につけられたんですか?
KC:ハワイかな。フェイスをスピードに乗って走っている感じがとても好きなんで。パーンて当てたり飛んだりするよりも、つるーんとした長いウォールを走っている時が一番幸せかな。
SM:テイクオフするポジションとかも拘りがあるんですよね。
KC:ありますけど、だんだん奥じゃなくなってきてますよね。昔はもっと奥から乗っていたけど、人が多くなって来るとどうしてもね。自分の位置からは人が邪魔で乗れなくなってくる。
大阪と四国の二拠点生活。
SM:303のショップを大阪に作ったのは理由は?
KC:大学も大阪だったから友達もいたし、人口的にもサーフィンする人が多いと思って、大阪は人情味がある場所だし面白いかなって思ってね。伊勢とか海の近くも良いかなって思ったけど、わざわざローカルのいるとこに行くこともないかなって思って。
SM;それから四国の工場が出来たんですか?
KC:四国の工場が先です。4日間四国に居て3日間大阪にいる感じでした。フェリーで二拠点の生活してました。(昔は大阪と徳島を繋ぐフェリーがあった)それから303は仲(仲憲一氏)との出会いが大きかったね。
KC:大阪に店を作って3年間は子供達10人ぐらいを車に乗せて、伊勢、日本海、四国とかに毎週行ってた。その当時の子供たちが、おじさんになった今でもサーフィンを続けててくれて、この前の大阪の展示会とかにも集まってくれたり、一緒にモルディブに旅行に行ったり、良かったなって思いますよ。
SM:ウエットスーツの話を聞きたいんですが、 千葉公平といえばフィットシステムズという感じですなんですが、フィットの前は何を着ていたんですか?
KC:茅ヶ崎の頃はビクトリーでした。その後ドロップアウトの小川さんからフィットに誘われたんです。
当時ドロップアウトの工場には岡本さん(フィットの創始者)もバフで働いていて、カメラマンのタイちゃん(横山泰介さん)も働いていて、日本のサーフィンカルチャーの根源みたいなところがあって。
それで、小川さんが岡本さんに『岡本は手が器用だからウエット作れば』って言って、フィットを始めて、公平を雇えって言われたみたいで自分がフィットのライダーになったんです。やがてシュウジ(糟谷修自氏)もフィットになりました。
サーフィンが素晴らしいということは、何も変わらないから。
SM:公平さんも湘南時代があって、四国・大阪と時代の移り変わりと共にサーフシーン、マーケットも変化して来ました。この時代に感じることはありますか?
KC:SNSとかで何もかもわかっているから、しょうがないですね。サーフショップはしんどいと思うしね。うちらは地道にやるしかないかなって思っているかな。どこでもなんでも買える時代だからね。嘘まで作れる時代。
SM:昔は良かったよねとかはないですか?
KC:ないね。
SM:昔は四国も多く雑誌にフィーチャーされていました。そういう雑誌も無くなって、寂しいですね。
KC:それは全然ないですよ。僕らの中では何も昔とは変わってない。でもあの時代は素晴らしかった。雑誌が色々仕掛けてくれたし、あと世界のカメラマンが四国に来てくれたし、シュウジ・カスヤが来て、今の一線級を連れてきてプロモーションして、みんなの前で「今のサーフィンとは」というのを見せてくれたことは素晴らしかったんじゃないですか。
SM:それで四国のサーフシーンが変わったとかいうのはないですか?
KC:人が増えただけかな。ローカルも増えてるし、ビジターも増えている。もう何が何だか分からない。わかってない人もいっぱいだし。一番大切なギブアンドテイクもないし。
SM:嫌な時代になっちゃったって感じですか?
KC:でも、そうしたのはうちらだからね。責任はある。しかも、そのサーフィンでご飯食べてるわけだからね。サーフボード作って、売って。やっぱりある程度リスクはあってもしょうがないんじゃないですか。
また何年か後には素晴らしいサーフィンの雑誌も出来てくるんじゃないですかね。時を経て一度ぐちゃぐちゃになってね。サーフィンは素晴らしいということは、何も変わらないから。
サーフィンは年取ったら「散歩」みたいなもんじゃないんですか。
SM:歳をとるとサーフィンを続けるのが難しい。肉体的にも精神的にも色々な要因が重なって海から遠のいてしまう人も多いと思います。どうしたら上手くサーフィンを続けられますか? 海の近くに住むはありだと思うんですが、難しい人もいると思うんです。
KC:なるべくいい仕事に就くことも大切だね。週に三日は休めるとか。年齢が高くなったらそういう仕事もあるんじゃないんですか。
SM:生活の基盤とかを変えていかないと難しいってことですかね。
KC:散歩みたいなもんじゃないんですか。年取ったらサーフィンって。散歩も行ってなかったら体も固まりますよね。だから、なるべく散歩できる環境を持つことだよね。
SM:公平さんのサーフボードのユーザー層はどうなんですか?
KC:やっぱり高くなっているよね。4、50かな。
SM:人それぞれレベルが違っていて一概には言えないと思うんですけど、そのユーザーの人たちには、どのようなサーフボードを勧めるんですか?
KC:徐々に変わってきている。ツインフィンだったり、幅が毎年広くなったり、厚くなったり、長くなったりしながら、みんな付き合ってくれているから。
ノーズが尖っているんじゃなくて、ラウンドになってきたり。あとは余裕のある人は2本持って、ミッドレングスを1本と、波のある時に乗れるベーシックなショートボードを持てって僕は言ってるけどね。
波のある時は小さいボード乗って、波のない時は大きいボード乗って。両方を使い分けて、そうしていかないとサーフィンがつまらなくなるから。
SM:303ではSaturdays NYC とのコラボボードも作っていますけど、それもそういったユーザーに向けたコンセプトなんですか?
KC:それはもちろんです。今も工場では来季のモデルも作ってます。
ミドルエイジのサーファーが快適に冬でもサーフィンを続けるために
BEWET:楽しむためのボード選びですね。そんなサーフボードと同じで、ミドルエイジの人が着脱ぎが楽で、冬も軽くて暖かいウエットスーツができたらという思いで今回、企画した新素材でできたウエットを公平さんに着てもらいたくて伺いました。
KC:僕らが一番望んでいるところですよね。めんどくさいもんね、厚くて脱ぎにくくて寒いっていうのは。
BE:そのほんのちょっとのめんどくさいが、都会のサーファーを海に行く動機を萎えさせるなっているんですよね。
じゃあ山行こうかとか、波も期待できなんだったらゴルフ行こうかとか。余裕のある人は色々な楽しみ方を持っています。でも冬だけどウエットスーツの着脱ぎが楽とか、重くないウエットスーツで、もう1ラウンド入れるとか。
ウエットスーツがハードルを少し下げてくれれば、4〜60代の人でも年越しても1月2月でも海行きたいなって思えるたらいいなと思っています。
BE:良いウエットスーツ高価なんです。開発から素材に凄くお金をかけているんで、いろんな経費も値上がりして、工場で働く手に技術を持った職人たちの賃金もキープしなければならない。
ネットなどで流通する安価な商品を購入する人もいますが、我々はその真逆を行きたい。お店もしっかり利益を得ないと業界が回っていかないんです。
サーフィンという文化を業界として回していくためには性能の良い製品をきちんと評価してくれる人がいて、プロショップさんがあって、プロ選手がいるという循環がないとダメなんです。いま日本ではそれが止まってしまっている。
サーフィンの開拓者とウエットスーツ開拓者のコラボレーション。
今回、株式会社サンコーは最新素材AGT210の着用テストを日本のレジェンドである藤沢ジョージさん、千葉公平さんに依頼した。
プロライダーを数多く抱えているサンコーだが、自社契約の選手が自社の製品を評価しても、期待以上の反応は得られない。だから経験値の高い二人のレジェンドに忖度のない意見を伺いたかったのだ。
サーフィン専用スーツがまだなく、ダイビングスーツ制作から始まったサンコーの歴史は古く、サンコーがあって今のたくさんのウェットスーツブランドがあるという事実。
そして、AGチタンなど自社で最新素材を開発するなどして、業界のリーダーの1社としてスーツの可能性を模索し、環境性能においても優れたウエットスーツをつくり出している。
サーフィンを開拓してきた藤沢ジョージさん、千葉公平さんと、ウエットスーツを開拓してきたサンコーのコラボレーションは、二人がこの素材開発に賛同し、テストライダーとして受け入れてくれたことで実現したものだ。
公平さんのウエットスーツが完成
年末年始を挟み、数週間の後に公平さんのスーツが完成し、ウエット引き取りを兼ねて工場視察にサンコーの千葉工場に千葉公平さんが来社。
「すごい綺麗なウエットだね。ピッタリだね。」と2.5ミリのスーツを試着した公平さんが笑顔で語った。
「このスーツは縫製がシームテープで、手首足首が締めてあって硬さを感じるかもしれませんが、その分水が入らないようにできてます」とスーツの説明をする尾崎社長。「2.5ミリは薄いのでフィット感はキツめにしてあります。」
KC:水に入ると少し緩くなる感じですよね。
BE:そうですね。最近の流行りとしては緩めが流行りなんですけど。ロングチェストはブカブカに作らないと動かないんで、それに慣れていると、うちのスーツはタイトに感じるかもしれません。でも絶対タイトの方が動きやすいです。間違いないです。使っていただいて、動きやすさを実感していただきたいです。
BE:今回2.5ミリと3ミリの2着をご用意させていただいたんですが、3ミリはミシンでやっています。2.5ミリはホットシールを使っています。薄いのでミシンでやってしまうと耐久性が落ちてしまうためです。
1.5ミリでもうちの工場では縫えるんですけど、ユーザーの方は3、4年は着たいと思うじゃないですか。そうすると薄くなればなるほど、ミシンで針穴開けちゃうと耐久性が落ちるんです。唐津(北九州)のショップの方たちとかも2.5ミリです。
「こんな細かい起毛見たことない」と圧倒的な保温力を誇る世界基準のハイテ クジャージ『AGT210 ®』を世界の公平さんも驚きを隠せなかった。
現在サーフマーケットは40〜60代がメインユーザーとなり、体力や年齢との折り合いで冬を諦めるサーファーが増えるだろう。
サンコーはいま日本が持つ暖かい技術と柔らかい素材、脱ぎ着のしやすいファスナーの工夫、楽に肩が脱げるインナーコード、2ラウンド目に冷たくない速乾性ジャージなどを用いて、ミドルエイジでも冬を諦めないスーツを作り続けていく。
次回は実際に冬の海で千葉公平さんにAGT210のウエットスーツを使用して頂き、その使用感をお聞きする。
※BEWETよりサーフメディア限定キャンペーンとして、カタログ内「AGT」マテリアルをオーダーのお客様先着50名に、オリジナルビーチタオルをプレゼントします。
オーダーの際、最寄りショップにてオーダー用紙備考欄に「サーフメディアAGT記事を見た」と記入してください。
期限:3月2日(日)迄のオーダーまで有効