『THE SURFER’S JOURNAL』日本版は、米サーファーズ・ジャーナル社発行の隔月誌『THE SURFER’S JOURNAL』のフランス語に続く外国語バージョン。本物の“SURF CULTURE”を日本のサーフィン愛好家たちに向けて発信。『THE SURFER’S JOURNAL』同様、美しい印刷で紹介される素晴らしい写真は読者を虜にする。

 

そんなサーファーズ・ジャーナル日本版7.2号となる最新号が6月25日(日)発売になる。今回の日本版のオリジナル・コンテンツは、日本のサーフィン黎明期に海外のサーフィンコンテストに挑戦した4人の若きサムライの物語。

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Chasing The Elusive Dream
「1969年、海外に目を向けた4人のサムライ」
文:森下茂男

日本のサーフィン黎明期におけるサーファーたちの時代マインドには、“誰が一番乗りか?”という先陣争いがあった。それは、いつサーフィンしたのかにはじまり、誰が最初にこの波(ポイント)をサーフしたのか、また、誰が最初にサーフボードをつくったのかといった「一番乗り」競争があり、そして誰がいちばん初めに海外の国際大会に出場するのかといった一番乗りレースもそのひとつだった。

 

海外の国際試合にフォーカスしてきた4人のサムライ、とくにドジはいち早く海外の国際大会、とくに世界選手権大会にフォーカスしており、はからずもマカハ・インターナショナルがその先陣争いの舞台となったといえる。

 

こうした先達たちの凌ぎ合いや切磋琢磨、日々の努力の積み重ねによって、また海外で出ることによって構築された海外の人脈やネットワークによって新たな道が築かれていった。それは、まちがいなく次の世代に受けつがれ、レガシーとなっているのだろう。

 


そして、もうひとつの日本版のオリジナルコンテンツが、やはり日本のサーフィン黎明期にスタートした日本サーフィン連盟の礎を築いた男たちの熱き想いだ。

 

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A Graceful and Perfumed Rage
Starting From Scratch
「日本サーフィン連盟設立前夜」
文:森下茂男

東京オリンピックの正式種目決定を受けて、悲願だった日本体育協会加盟など、にわかに慌ただしくなった日本サーフィン連盟周辺だが、日本のサーフィン黎明期にその礎の、さらに礎を築いた男たちがいた。

つづいてのストーリーは、オアフ島マカハにしばらく住んだことのあるデイブ・パーメンターによるサーフィンライディングに関する論文ともいえる、いち考察が興味深い。ハワイ語で言うところの“ララ”、波を横に走る行為についてである

 

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Going Lala
「ゴーイング・ララ」
じつは奥深いパフォーマンス・サーフィンの歴史。
文:デイブ・パーメンター

崩れる前の波のフェースを横に滑りはじめたのは、いつごろなのか。材料が限られ、デザインが未発達だったとしても、だれかが偶然、もしくはトライ&エラーの末、斜めに滑ることを発見した可能性は排除できないだろう。ポリネシア・トライアングルの底辺あたりでは短いベリーボード風の乗り物が使われていたが、サーファーたちがそれに乗ってララに興じていたことも、じゅうぶん考えられる。

 

セーリングの知識を深く習得していたポリネシアのプロト・サーファーらは、追い風を受けるときと向かい風のなか斜めに進むときのスピードの違いに気づいていただろうし、それをサーフライディングにも応用できたはずだ。どれも推測の域を出ないものの、ひとつだけ確かなのは、サーフィンが今日の姿にたどり着いたのは、ポリネシアの海洋民族がハワイ諸島に定住した後ということである。

 

つづいての特集はボトムロッカーについてだ。サーフボード・デザインを考えるとき、もっとも難しい部分がボトムロッカーだ。たとえば波のタイトなコーナーでボードをフィットさせようとロッカーを強調すると、サーファーのパドルに影響を与えてしまったり、あるいは“アベレージ”な波(パワフルでもなくパーフェクトでもない)では、そこそこの波乗りしかできないボードになってしまう。

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SOUNDINGS
「ロッカー:波にフィットするということ」
クリスチャン・ビーミッシュによるシェーパーたちへのインタビュー
文:クリスチャン・ビーミッシュ

はたしてシェーパーは、サーファーが喜ぶマジックなカーブを見つけられるのだろうか? たとえば1990年代に時代を席巻したケリー・スレーターのショートボード。そのミニマリズムはきわめて実験的な試みだった。一般サーファーのだれもが、その「妖精の靴」を手に入れて、彼のようにスピードとフローを体感したいと思ったが、多くは徒労に終わった。

 

だが、その軽く薄いサーフボードの10年が、大きな沈滞だけを招いたわけでもない。マット・ケックルが指摘するとおり、1990年代に開発されたフリップチップ集積回路は、パワー・フロー・サーフィンとエアリアルという新境地の実現に向けた橋渡しにはなっただろう。
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The Chocolate Islands
「チョコレート・アイランズ」
サントメのルーツに触れる旅。
文:ウィル・ベンディックス
写真:グレッグ・ユーイング

古代火山がつくりあげた背骨のような道を、海に向かって車を走らせる。窓の外に広がるのは、どこまでも深い地球の色だけ。まるで地球の豊かな深緑の内臓を裏返しにしたような、島特有の色彩だ。曲がりくねる道を進むと、巨大なヤシの葉が車を叩く。

 

ラジオからは、50セントのラップと南アのレゲエ歌手、ラッキー・デューベの曲が流れていて「よいことは、現実に一歩踏みだす者に訪れる」と、ラッキーがささやくように歌っている。おそらく彼には、サントメの西海岸を見つけようと旅した経験はないようだ。
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Unsafe At Any Speed
「危険がいっぱい!」
疾風のように駈け抜けたニューヨークのサーフレジェンド、リック・ラスムーセンの人生。
文:マライア・エルンスト

リック・ラスムーセンは1974年、19歳でUSサーフチャンピオンシップに優勝し、27歳のとき、ハーレムでの麻薬取引の揉め事から発砲され、この世を去った。いまでもニューヨークを代表するサーファーだし、当時はベストサーファーのひとりだった。ラスムーセンは、古き良き時代のソウルサーフの美学と、近未来的なアグレッシブでパワフルなサーフィンを融合させたスタイルが特徴的だった。

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Portfolio: Al Mackinnon
ポートフォリオ:アル・マッキノン
イギリス在住フォトグラファーのファイル