波に乗る感動を分け与え続けたヒーロー
奇しくも2013年 11月2日。ちょうどアンディ・アイアンズの三周忌に当たる日。また一人の偉大なるレジェンドサーファーが他界された。
『アンクル・バテンスがFB友達になってくれたんだ!有名な人だし、見た目も怖いし、近寄らない方がいいんだろうなと思ってたけど、チャンズで何度も波を譲ってくれたんだ。いい人だよね!』12歳になるノースショア・ローカルキッズが嬉しそうに話していたのは、ついこの間、夏になるかならないかの時だ。
text by Emiko Cohen photo by Gordinho
バテンス・カルヒオカラニ(March 30, 1958 – November 2, 2013)
サーフスクールを6年前に開校して以来、たとえ相手が外人だろうが幼児であろうが老人であろうが健常者であろうが障害者であろうが、全力でサポートし世界の多くの人たちに『波に乗る感動』を分け与え続けてきた。その彼が体調不良を訴えだしたのが今年の夏。『病院に行ったら肺がんの末期といわれてあと数週間の命なんだ』いつもと変わらない様相で友人に話したという一件は、すぐにコミュニティー全域に伝えられた。伝えられたとほぼ同時に友人たちによりチャリティー活動をするグループが発足。バテンスが出来る限りの治療を受けて延命できる様にという祈願からだ。
54歳。まだ逝くには早すぎる。その約1ヶ月後、バテンスがハレイワのサーフショップに現れた。『俺、3日前に死んでるはずなんだけど、、』と笑顔で話していた、そのサーフショップで働く私の娘から聞いた。究極な状況にいながらも殻にこもらず周囲に気を使いカジュアルな態度をみせているなんて。個人的な繋がりがなかった私でさえも、彼の延命を心から願わずにはいられなかった。が、その約1ヶ月後の11月2日。『バテンスが逝ってしまった!』というニュースがまずFacebookで広がり数時間後にテレビ番組で伝えられた。テレビで報道されるやいなや、ものすごい数のメッセージがインターネットに掲載された。最後までアロハを与え続けた人へのメッセージらしく、口裏を合わせた様に、悲壮的なものではなく彼の生き方を敬愛するものばかりだった。
ケリー・スレーターは11月2日の自身のインスタグラムでメッセージを送った。
『8歳の時にバテンス・カルヒオカラニが出ていたサーフムービーを見て、すぐに彼は俺の『フェイバリット・サーファー』リストに加わった。チューブの中でスウィッチ・スタンスや360度スライディングをするバテンスを見ていると『サーフィンって本当はこんなに楽しいものだったんだな~』と思わされた。俺が思い描いていたようなサーフィンを実際に彼はやってくれていたんだ。
外観もロブ(マチャド)が羨ましがる様なアフロで、体格は50歳なのに20歳くらい。彼自身は気がついてなかったかもしれないが、とてつもない数の若手サーファーたちにサーフィンの可能性の種を蒔いてくれた。バテンス、最高の笑顔とチャンズリーフで毎日レッスンをしていた君の姿がもう見られなくなると思うと寂しくなるよ。俺たちにアイデアとインスピレーションを与えてくれてありがとう。向うでアンディに会ったらハイファイブ(ハイタッチ)で宜しく伝えてくれ!!』
カリフォルニアのマリブビーチでもセレモニーが行われた
なぜ、これほどまでに多くの人に愛されたのか。
彼の人生はサーフィンのみでは語れない。大きな人生の波で一度は、醜いワイプアウトを経験しながらも再度沖に向かったいった。そんな彼に誰しもが尊敬の念を抱かずにいられないかったのであろう。過去の記事を元に彼の人生を振り返させていただいた。
1970年代。サーフィン業界の革命期。それまで使われていた板は”9’5の長い板だったが、波がないときに遊ぶ道具のスケートボードが巷に広まったと同時に5フィート前後の短いボードが出現した。『波の上でスケートボードのような動きが出来るのではないか』と野望の元に、そんな短いボードが試験的に試されたのだ。
ショートボードでスケートボードの様なアグレッシブな動きを最初に実現した人こそがバテンスだった。カイザーやベルジーを舞台に、スリーシクスティー、テイルスライドにスイッチスタンス。それまでのユックリとしたスムースなマニューバーとは全く違い、まるでハリケーンのようなスピードで踊る様なサーフィン。その画像はサーフィンムービーを通して世界のサーファーたちに届けられ、バテンスは一気にサーフィン界のアイドルの座に登った。そのときの思いを 様々なインタビューでバテンスはこう語っている。
『その頃は(サーフィン界に)まだお金が絡んでなかったときだからプレッシャーなしに楽しさだけを追求することができたんだよ。だから大会でも失敗を恐れずに思いっきり好きなマニューバーを披露できた。技術は自然に身に付いていたものなんだ。ワイキキの波でパイポボードを使ってスリーシクスティーをしていたから俺にとっては特別なことじゃなったんだ。波の途中でスイッチングすることを多くの人たちに驚かれたけど、俺はただバックサイドじゃパワーにかけるから途中で前向いてリップに向かってみようかなと思って実行しただけ。その方が力強く波にアプローチできるだろ。』
自然にサーフィンを覚えたというバテンス。生まれ育ったのはホノルル。テキサス出身のアフリカン・アメリカンの父親とハワイアンの母親の間のに産まれた彼は「Montgomery Earnest Thomas」と長い名前が付けられた。ベビーの時にアフロの髪がまるで洋服のボタンのようだと、お婆さんからそのニックネームを付けられ、その名前が彼の名前として定着した。
海が彼の人生に欠かせないものとなった切っ掛けは彼のおじさん。ベトナム戦争のベテラン(戦争から帰ってきた兵士という意味。ベテランの一部はその功績を称えられ、その後の生活は軍が保証してくれるので働くなくても生きていけるケースが多い)その叔父さんについて毎日ワイキキビーチに通ったバテンス。10フィートの板で波に乗るオジさんの姿に憧れを抱き、いつしか彼も自然に泳ぎを覚え、持っていたパイポボード(木製でボディーボードより多少長いだけのフィンの無いボード)で波に乗るようになった。もちろん当時は短いボードで波に乗る人などいない。模範がないだけに子供心の想像をいかして、飛んだりは跳ねたり。誰の真似ではないバテンスならではのサーフスタイルを築き上げていった。
『ワイキキではリノ・アベリラ、バリー・カナイアウプニ、ジェフ・ハックマン、ラリー・バートルマンたち。ノースショアに行けばジョック・サザーランド、エディ・アイカウたち。魅せてくれるサーファーに憧れ、知り合いになれたというのも自分が飛躍できた理由だと思うんだ。自分自身も上手になりたかったから毎日毎日、ベン・アイパのシェープしてくれた小さいシングルフィンが付いたスティンガーの板を使い、ベンからコーチングも受けながら、朝から晩まで練習に明け暮れてた。』
結果が出せたのは1973年。14歳の時に全米アマチュアのチャンピオンに。ワイキキの波打ち際で無邪気に遊んでいただけの男の子が、時代の流れにマッチしたのも手伝って、誰からも尊敬される存在へ。まるでアメリカンドリームを彼自身が見せつけたかの様な人生を歩んでいた。しかし、サーフィンに集中したいが為に高校2年生の時に通っていたマッキンリーハイスクールを中退したのが悪かったのか、人として熟さぬ時に脚光を浴びたのが悪かったのか、パーティー三昧の日々を送ったのが悪かったのか、ASPの大会では思う様に勝つことが出来なかったのが悪かったのか、ある時から悪魔に纏わり付かれることになってしまう。ヘロイン中毒。その上不幸なことにアメリカの人気リアリティーショー《Dog The Bounty Hunter 》で、警察に保護される彼の姿が全国報道。サーフィンスターから一気に堕落。悪のレッテルが貼られることになってしまった。
『気がつかないうちにどんどん悪の道を歩んでしまったが、今思うとすべては自分に掛かっていたんだと思う。悪の道を選ぶか善の道を選ぶか、全ては自分にかかっていたんだよな。身勝手な行動だったと思う。家族にも友達にも申し訳ないことをした。悪から抜けることができた今、子供達のため、孫のために自分の人生を捧げようと思っている。』
その後完全に薬物を立っただけでなく口約通りに他人の為に人生をそのものを捧げたバテンス。間違いを認め、若手たちに経験からの切実なるメッセージを残してくれた。そんな彼だったからこそ誰からも愛されたのかもしれない。8人のお子さんと9人のお孫さん奥さんのヘリアタさんの胸の中に、そして多くのサーファーの胸の中に、彼の指導で初めて波に乗る経験をした人たちの胸の中に、バテンス・カルヒオカラ二はいつまでもいつまでも生き続けることだろう。
バテンスからのメッセージ
※これは2007年に収録されたものです。動画を再生して、以下の翻訳文章とあわせてご覧下さい。
『25。。。じゃない。。。12億万回。。。まあ、それでね、。。。世の中のみんなの為の公示をすることした。。。どうかメッセージを受けて、心に深く刻んで欲しい。。。良い話だ。。。誰しもできること。なんとかなる。。オッケー。。。始めるよ。。。
アロハ。。。俺の事を知ってるかい?俺の名前はバテンス・カルヒオカラニ。世界でも有名なサーフィンレジェンドだ。。。それだけじゃない、ヘロイン中毒だった人間だ。。。
若かった頃、俺はラディカルマニューバーをみせるサーファーとして有名になったんだ。俺が360度ターンやスウィッチスタンスをモダンサーフィンを世界に紹介した本人だ。。。当時の俺は最高に光っていた。。。いつのまにか有名人が集まるパーティーに呼ばれる様になっていたんだ。。。まだ子供だったっていうのに。。。いつのまにか俺はパーティーの中心人物になり、誰しも俺とパーティーをしたがる様になっていた。。。そうこうしているうちにサーフィンが自分から遠のいていき。。。妻や家族も遠のいてしまった。。。悪の病の中へ自分を落としてしまったんだ。。。
世の中には我々を困らせる様々な中毒物がある。。。。食べ物に執着しすぎる食べ物中毒、タバコ中毒、アルコール中毒、そして薬中毒。。。。中毒は我々の足を引っ張る。。。。俺は本当にラッキーだったと思う。最悪な状態の前に助けを受けて、克服に向け進むことができる様になったんだから。。。一日ずつずつゆっくりと回復の道を辿っている。。。自分をようやく取り戻すことが出きたんだ。。。俺を愛で見守ってくれた人たち、子供と家族と友達との関係を改めて築きななおしているんだ。。。
30年間失っていた健康をようやく取り戻すことが出来ている。。。サーフィンを見てくれればわかる。今までにないくらいの調子いいサーフィンをしている。。。自分の会社も立ち上げた。。。30年間できなかったこと。。。今ようやく自分の人生を生きていると感じている。。。人生は宝だ。。。一日でも無駄にしない様にしてほしい。。。(中毒で困っているんだったら)今日からだ。周囲のヘルプを受けてくれ。手助けしてくれる人はすぐ横にいるんだから。一言こういえばいいんだ。『人生を取り戻すための手伝いをしてくれないか』と。姿勢を正して、人生をしっかり生きてくれ。。。。。これはバテンス・カルヒオカラニから世界のみんなへの公示。メッセージを組んででしっかり胸に刻み込んでくれ。なんとかなるさ。』