二つの顔を持つグランドチャンピオン、庵原美穂インタビュー(2/13)

庵原美穂・インタビュー

 

プロ4年目で2011年JPSA第4戦で悲願の初優勝、2011年度グランドチャンピオンを獲得した庵原美穂。鴨川で看護師として働きながら、プロサーファーとして掴んだ勝利。試合を重ねるごとに強くなっていってるように感じる。2011年の日本のショートボードの女王となった庵原美穂の今までの歩みと強さの訳を知りたいと思い、インタビューをした。

インタビュー:米地 有理子 Photo :s.yamamoto、yonechi


▶1年間を振り返って
NIIJIMA photo:s.yamamoto

 

 

Q. 2011年JPSAショートボード女子グランドチャンピオン、おめでとうございます。今年は第5戦の鉾田でプロ初優勝をした後、延期していた第2戦の新島でも優勝、そしてグランドチャンピオンの獲得と、快進撃を見せてくれました。1年間を振り返ってどんな感じだったかを聞きたいのだけど、まず1戦目の大洗の試合はどうだったのかな?

3月に大震災が起こり、当初プロツアーが行われるかわからなくて、複雑な気持ちでしたが、やると決まってからは今までどおり全戦頑張ろうと思っていました。被害に遭わず進める人は立ち止まるのではなく、進まなくてはならないのではないかというのが自分の考えでした。原発の事故の影響は心配でしたが、今年やると決まれば全力でやろうと思いました。

グランドチャンピオンは狙ってはいなくて、今年は優勝をするということを目標にしていましたね。5月に行われた1戦目は久しぶりの試合でしたけど、自分の調子は上がってきていたので、手応えは感じていました。ただ、勝ちたいという気持ちが先行していて周りが見えていなかったのでセミファイナルで負けてしまいました。

Q.第2戦の新島が延期になって第3戦の大洗の試合になったけど、その試合はどうだった?

第2戦が延期になり、少し時間があいて、第3戦の大洗までに、試合に勝つために必要なサーフィンの修正ができ、波を見る目線も定まってきました。けれどもライディングの安定感が確立しないまま、修正しながらのサーフィンだったので決められるところを決められずに負けてしまいました。ファイナルを見ながら優勝をするにはどうしたらいいのかを考え、優勝したいという気持ちが先行していたけれど、自分のサーフィンをヒートでやりたいし、出さなくてはいけないと思い直しました。

Q.第4戦の千葉は?

まずは自分のサーフィンをしっかりだすことに集中しました。ファイナルは負けましたけど、手応えは感じました。1戦1戦重ねるごとに人は人、自分は自分という気持ちで進めるようになり、毎試合ごとに自分の足りないところが明確になってきました。

Q.そしてついに第5戦で涙の初優勝を飾ったんだよね。

実は千葉の試合をシェイパーさんがライブを見てくれていて、試合で足りないと思った部分をフォローする板を試合が終わった後すぐに渡してくれたんです。試合の時に新しい板を下ろすことはないんですけど、試合前の練習で乗ってみたらものすごく調子が良くて、この板でやろうと決めました。ハードコンディションで女子の試合が流れたのですが、そのコンディションの中で自分のサーフィンがどこの波で出せるかを確認できて。ヒートでゲットするときも自分の波はここだというのが見えていました。勝つ時ってこんな感じなのかって思いましたね。波がすごく見えていて、来る波を確信を持って待てるというか。

でも以前に志田下の大会で同じように(谷口)絵里菜さんと争って最後に逆転をされていたので、その時のことが頭にあって、駆け引きをしながら最後までいって勝つことができました。いろいろな人から「勝てるよ」と言われながらも優勝まで時間が掛かりましたね。フォーンが鳴った瞬間に嬉しさよりも「やっと優勝できた」という安心感の方が強くて。その時に、絵里菜さんがその場で抱きしめてくれたのが嬉しかったです。プロデビューした時の試合は結果が3番だったのですが、実は絵里菜さんとマンオンマンの試合だったんです。いつかまた絵里菜さんとこういう場で戦いたいなと思っていたんです。

 

▶JPSA初優勝
 

HOKOTA photo:S.yamamoto

 

Q. 初優勝の鉾田の試合後、延期になっていた第2戦の新島の試合でも優勝したけど、あのときはどうだったのかな?

少し早めに新島に入りました。まだ試合会場が決まっていなかったのですが、たまたま1人で、その後試合会場に決まった奥磯ポイントで練習をしていました。自分が想像していた波よりも自分の波長と合う波だったというか。試合もそのままの勢いで、「ここの波は好きだから大丈夫」と自信を持って臨めました。後半戦は波のサイズがどんどん上がってきて、イメージがかけ離れてきたところもあって、自分のサーフィンが出し切れなかった部分もありますが、男子の試合に刺激を受けながら積極的にいきました。

セミファイナルで板とクラッシュして目の上を切ったうえに、海から上がる際にインサイドの岩に激突して足を強打したりしたんですけど、この試合は落とせないと強気でいました。前の試合で優勝してグラチャン争いに絡んできていたからです。せっかくグラチャンに手が届くなら取りたいと思ったので、ここは確実に優勝をしていかなくてはと思いました。それで何とか優勝できました。

Q.そしてグランドチャンピオンを決めたバリの最終戦は?

最終戦でグラチャンを取る条件が明確になり、絵里菜さんの結果に関わらず、自分が3位に入ればグラチャンが決まるという状況でした。グラチャンを意識してしまうとヒートを勝ちにいくのにすごくプレッシャーになってしまうと思ったので、3位というボーダーラインがあってもとにかく優勝をしっかりしていこうという気持ちで進もうと思いました。けれどもグラチャンを意識しないようにしてはいても、やはりラウンド1の試合からすでにものすごく緊張をしていて。試合の内容は全ヒートすごく課題が残りました。2番でもいいから確実にヒートを上がっていくことを最優先にして満足するサーフィンができなかったと思います。

でもグラチャンが見えてきたとき、自分のためというよりも自分を支えてくれてる職場の上司やスタッフ、自分の師匠、シェイパーさん、サーフショップの仲間にグラチャンを持って帰りたいって思ったんです。そういう人たちがいなかったら自分はグラチャンを取れなかったとすごく思います。グラチャンが決まった後のファイナルは、優勝したいと思って全力で戦いましたが、力が足りませんでした。海外回っている(大村)奈央のサーフィンは素晴らしいなって思ったし、自分自身の課題も残りましたが、次に繋がる試合ができたと思います。

 

▶小学校の時の夢は女子サッカー選手だったんです。
病院の仲間と。private photo

 

Q. ここからは庵原美穂がグランドチャンピオンになるまでを聞きたいんだけど、サーフィンを始めたのは遅かったんだよね。きっかけは何だったのかな?

もともと体を動かすのが好きで、小学校の時の夢は女子サッカー選手だったんです。チームに入ってサッカーをしたくて、高校は一貫教育でそのまま上がれたのですが、サッカー部のある高校を受験して入りました。でも2年で転校することになってサッカーは諦めました。それで短大に入ってからスノーボードを始めたんですが、とても楽しくて。やるからには大会にも出てみたいなと思ったんですが、そんなに頻繁に行けなかったし、冬だけじゃなくて何か1年中できたらいなと思っていたんです。そしたら雑誌か何かでサーフィンを知って、1年中できるし、横乗りのスポーツだし面白そうって思ったんですよ。でも周りにサーフィンをやっている人はいなくて、ネットでサーフィンについて調べました。

それで神奈川県の川崎市に住んでいたんで、江ノ島にあるサーフィンスクールに1人で行ったんです。でもその時はファンボードで、パドルと波待ちで気持ち悪くなって終わったんです(笑)。でもどうしてもファンボードではなくショートボードがやりたくて。女の子が乗れたら絶対かっこいいなって思って。まずは環境を整えなくてはと思って車の免許を取りに行きました。バイトをして道具も揃えて。サーフィンといえば湘南というイメージで、波情報でスネヒザとなっていたらパドルの練習しなきゃって1人で行きましたね。でも就職活動が始まると忙しくなってなかなか行けなくて。

Q.短大卒業後、看護師になって今の鴨川にある亀田病院に就職したんだよね。

就職するならサーフィンもしたいし、海のある環境で働きたいと思いました。そしたらたまたま今働いている亀田病院を見つけたんです。自然や田舎の環境もすごく好きで、「ここの病院が私を呼んでる!」っていう感じでした。それで試験を受けたら受かったんですけど、その時はまだ鴨川がサーフィンできる海ということは知らなかったんですよ(笑)。就職決まってから調べたら、サーフィンのものすごい場所でした(笑)。それで、鴨川に移り住んでから本格的にサーフィンを始めました。

Q.看護師の仕事も1年目ということでサーフィンとの両立は大変じゃなかった?

大変というよりも新しい土地で新しい環境ですごく楽しかったです。波がなくても海に浸かるだけで癒されるので楽しくて毎日のように入っていました。仕事も学生ではなくて社会人として1人前に働き始める時で、患者さんと触れ合うのがすごく楽しかったり、こういうことしたい、ああいうことしたいって思いながら、あっという間に時間が過ぎました。時間が足りなかったですね。

Q.仕事をしながら海に入れる時間は毎日あったんだね。どんな時間に海に入ってたの?

最初は日勤から始まって、独り立ちできるようになってからは夜勤も始まって。夜勤の時は夜勤明けで日中海に入り、日勤のときはちょっとでも時間があれば入っていました。夏なんかは朝と夕方入っていましたよ。30分でも時間があれば入っていましたねえ。

Q.ーどのあたりから大会に出るように?

鴨川に来て2年目で、NSAの支部の大会に出てみたんですけど、その大会で今までできなかったことができたんです。そしたら楽しいって思って。今までいろんなスポーツをやってきたけど、全部中途半端で終わっていたので、サーフィン楽しいし、とことんやってみたいって思ったんです。負けずぎらいだったし、その大会をきっかけに小さな大会に出るようになったんです。そしたら優勝できるようになって、優勝すると楽しいので、大会にどんどん出るようになりました。3年目で東日本選手権にでることができて、レベルは達してなかったのですが、ラウンドを上がれて全日本に出れることになったんです。そこからですかね、道が敷かれて来たというか。

 

▶プロになる気持ちはなかったんです。

 

Photo:yonechi

Q. プロになろうと思ったのはいつぐらいからなの?

プロになるとは最初考えていなかったんですよ。でもショップの子には「美穂は最初からプロになるって言い張ってた」と言われるんです。記憶にないんですけど。東日本選手権に何年か出るようになって、JPSAにも出るようになっていずれはプロになりたいと思っていましたけど、最初の頃は世界戦に出たいという気持ちが強くて、半分プロになる気持ちはなかったんです。

自分のキャパシティを上げる為に世界戦にどうしても出たくて。でも当時世界戦は2年に1回だったんですけど、やっとチャンスが巡ってきた選考会の時に1コケしちゃったんですよ。すごく落ち込みましたね。それで、世界戦行きたかったけど、この次は2年後だということで、ここで逃したのは世界戦に縁がなかったと思って来年はプロになろうと心を切り替えました。

Q.大会にでるのに仕事はうまくお休みを取れた?

お休みを作るのは難しかったですね。職場の上司にはサーフィンしているのは言ってても初めの頃は大会に出ているのは伏せていたんです。JPSAの試合でも、ラウンド上がってプロになっても、その後の試合は休みを取っていないから出れないなというような回り方でしたね。以前、マルキで延期になった試合があったのですけど、仕事上調整できなくて、職場に迷惑をかけれなので、夜勤明けで間に合えば出ようと思っていたんです。

そしたらその日夜勤終わったと同時に自分のヒートが始まるというような状況で、ダッシュで道具を取りに行って着替えて、ゼッケンを取りに行ったらヒートが半分ぐらい始まっていたんですよ。半分間に合えばラッキーだと思って浜辺を走って行ったら足がこんがらがってこけちゃったんです。

結局ヒート負けちゃったんですが、そんなことがあったんですよ~なんて職場の上司に笑いながら話したら、「あなた、何で言わないの。何とかしたのに」と言ってくださって。それからは、きちんと素直に今自分がやっていることを伝えていこうと思ったんです。職場の上司が実は昔国体に出るほどの体操の選手だった人で、理解のある人だったんです。やるならとことん頑張ってきなさいって背中を押してくれて。それでプロになったのをきっかけに病院に話をしたんです。病院とプロサーファーとしてプロ契約をしてもらい、看護師として働きながらプロサーファーとして活動をすることができるようになりました。

▶看護師がプロサーファーとして活動
 

Photo:yonechi

 

Q. プロ契約によってプロサーファーとしての活動がしやすくなったんだね。

病院にも看護師の庵原美穂がプロサーファーとしてプロ活動をしていると言ってもらえることになって、試合にも十分調整できるだけお休みを作ってもらって。プロ契約によって海外にも出やすくなりました。

Q.2008年にプロになって、2010年にはプロ枠で念願の世界戦に出場したよね。あのときはどうだった?

世界戦に行けるチャンスが回ってきて、どうしてもペルーに行きたくて、「行きます!」って言って行った結果が惨敗で。自分のサーフィンが出せなかったし、やっていることも違った。もう何しに来たんだろうと思うぐらい不発に終わったという感じでした。惨敗で恥ずかしい思いで帰ってきました。それまで試合でバリ、それから台湾には行ったことがあったんですけど、ペルーのようなパンチのある波ではサーフィンしたことがなかったですね。

Q.その経験によって何か変わったのかな?

きっとそういう経験が何かを変えたと思いますが、変わり目っていうのは自分では実感していないんです。でも悔しい思いをした分、海外に出て経験したいという思いが強くなりましたね。その後、初めてハワイにも行きました。

 

▶どちらも自分には必要なもの
 

BALI photo:yonechi

 

Q. そうやってプロとしていろいろな経験をしながら2011年、JPSA初優勝、次の試合でも優勝し、ついにグランドチャンピオンを獲得したんだね。ここまではプロサーファーとしての話をメインで聞いているけど、看護師の仕事はどうなのかな?

サーフィンやっていると見た目が色が黒くて元気そうに見えるみたいで、「お姉ちゃん、サーファーなの?元気そうでいいわよね」とか、「元気いっぱいだねー。私も元気になるよ」とか言ってくれる患者さんもいて、それが1番嬉しいですね。患者さんの中には辛い状況の中で元気そうな姿は鼻についてしまうこともあると思うんですよ。それでも「元気もらったわ」って言われると、自分も頑張るぞって思うんです。サーフィンも看護師の仕事も。

Q.どちらも自分には必要なものなんだね。

どっちが欠けても今の自分はいないですね。サーフィンしていて勝てなくて落ち込むときもあるけど、不思議なことにそういう時に患者さんから「元気もらうわ」とか言ってもらえて。逆に仕事でちょっと上手くいかなかったときにサーフィンでいい波に乗れたりして。どっちかでバランスを保っているときが多いですね。

Q.体力的にきつくなったりしない?

きついときもあるけど、それでも昼間にサーフィンできる時間を作れるので、大変だって言ったらせっかくある環境がもったいないと思うので。みんな試合回っている人たちは仕事しながら時間作ってやっているし、その中で自分はすごくいい環境を与えてもらっていると思っています。だからひたすら頑張るしかないって思います。

Q.今後の目標はどんな感じだろう?

2011年はグラチャンをめざして取り組んでいた訳ではないので、2012年は初戦からグラチャンを取るために優勝をしていきたいと思います。もっともっと実力を上げて自分が納得できるサーフィン、観ている人を楽しませることができるサーフィンをして優勝していきたいって思っています。

▶【あとがき】
以前の取材で看護師としての庵原美穂の姿を見せてもらったことがある。命と向き合う非常に神経を使う専門的な仕事であるし、ミスは許されない。そんな仕事をこなしながら、プロサーファーとしての目標を掲げ、達成に向かって進む強さはどこから来るのだろうと感心をしたし、今回優勝という目標を達成し、グラチャンまで獲得をしてさらにその強さに感心した。どんな波でも一歩も引かない強さ、謙虚に試合を振り返り修正して進む前向きな姿勢、周りに感謝をしながら見ている人に喜んでもらえるようにと考える心の器。 

看護師とプロサーファーという二つの専門的な仕事をこなす中で、庵原美穂の強さは培われ、グランドチャンピオンというタイトルを手にした。最後に「始めるのが遅くても自分の目標を諦めないでしっかり前を向いて取り組んでいけばきっといろんな結果がその人その人についてくると思います」というメッセージをくれた。まさに努力努力の日々の中で達成した目標であり、多くのサーファーに勇気を与えてくれるプロサーファーだと感じる。これからも努力の強さをみんなに見せてほしい。今後の活躍、庵原美穂のサーフィンを楽しみにしている。