東日本大震災から1年半経った福島~岩沢ポイントを訪ねて2

東日本大震災から1年半経った福島~岩沢ポイントを訪ねて2


◆岩沢ポイントについて(岩沢ポイントを開拓した坂本巖さんの話)

 

「四倉海岸に行って波乗りしようと思ったら、ちょっとサイズがなくて、そういえば昔、子供の頃に山菜のウドを採った記憶があって、そのとき川を下って海に出たのを思い出したの。だから、あそこにビーチがあったはずだって、友達と二人で軽自動車で坂道を下りて行ったの。でもそのときはこんな道はないから、ススキがわーっとなっている山道を強引に下りてきたの。そしたらピークで2mぐらいの波が来てたの。きれいな波だった。秋口だったね。ここに波が立つのは、他がクローズアウトのときなんだよね。海に入ってみると、ビーチの下に所々岩があって、サーフボードで滑っていくと黒い影が通っていくのが見えたよ。それぐらいきれいだった。まだショートボードのシングルフィンの時代だったね。仲間5、6人のシークレットポイントだった。でも段々知られるようになって、シェーン・ホラン、ウェイン・リンチ、ドジ井坂さんがここに来たことがあって、たしかサーフィンワールドに載ったんだよね。それから一気にポイントの存在が知られたね。ちょっとさみしかったけど、自分の海ではないからね。みんなの海だから仲良く楽しんでやればいいかなって。福島のローカルはおっとりしてるからね~」

 

文・写真/米地有理子


 

◆震災のときのことと、岩沢ポイントが解除された今の気持ちについて岩沢ローカルの方々に聞きました。

 

■坂本巖さん/広野町在住。福島第二原子力発電所に現在も勤務。震災当日は福島第二原子力発電所で作業をしていた。

 

「震災の時は第二原発(福島第二原子力発電所)の海側で作業していたんだよね。立っていられない状態。これはもうヤバイからすぐに逃げようって。事務所に 携帯と車の鍵を取りに行って3階から海見たらダーって潮引いていたの。これは絶対来るって思ったね。建物とアスファルトの間が20cmぐらい開いてバッ カーン、バッカーンってぶつかるの。「すぐに逃げなさい」って警報鳴って海抜30mまで上がって待機した。道が寸断されてて、16km先のうちに帰るのに 5時間ぐらいかかったよ。うちは海沿いでも高い所にあったから大丈夫だったけど、家が流されちゃった人もいっぱいいたね。それから原発が爆発しちゃったか らね。町は寸断されちゃった。しばらく東京の息子の所に2ヵ月世話になったんだ。今は廃炉に向けての補助作業をしているよ。こっちの方は産業があまりない からね、どうしたってこういう仕事するしかないから。

 

昨日(禁止区域解除の8月10日)は4時に目を覚まして一番最初に車を止めて一番乗りだったよ。うれ しかったね。こんなに早く岩沢に入れると思わなかったよ。ここに入ったのは1年5ヶ月ぶりぐらいかな。感動している。若い人なんかはまだ怖がって入らない みたいだけど、俺らじじいどもには大したことないよ。四倉も最初は人少なかったね。もうやれるなと思ったからこれまでの間は四倉のローカルに入らせても らったの。こっちが入れるようになったらあっちのローカルもこっに来るよって言ってた。四倉も岩沢も若い奴らがすごいんだ。清掃したり、ポイント守ってる から。俺らはやることないよね。これからは富岡町の境までは行けるようになるんだ。元気になるよ」

 


鈴木一司さん・・・広野町在住。福島第一、第二原子力発電所に現在も勤務。震災当日は第二原子力発電所のある富岡町にいた。

「震災の時、会社の安全大会やってて富岡町にいたんだ。無事に帰ってきたけど、仲間の安否は全然わからなかった。家を流された人はいたけど、自分の周りの 人で亡くなった人はいなかった。その後、3月17日に原発に戻って仕事。戦場のようになっていたね。いろいろバッシングされたりしているけど、社員やメー カーの人間、消防士とか現場の人間はある意味英雄だよな。逃げないで作業してたよ。戦士だった。俺らにとっても海を汚してしまって悲しいけど、そんなに悲 しんでばかりいられないし、まだ岩沢は手付かずでこんな瓦礫が残っている状況だけど、みんなで少しずつ片付けしていくから。今は広野町に戻って自宅に住ん でいるよ。昨日(禁止区域解除の8月10日)から海に入ったよ。感動だよね。波も良かったし。乗った瞬間、やっぱり岩沢の波はすごいって思ったよ、パワー あるし。ふっとばされたけど、それも楽しいよ。また入れて良かったな」

 


■関根乃さん・・・富岡町の自宅から避難して広野市に在住。原発で働いていたが早期退職をし、震災当日は家族で高知県に旅行中だったが、すぐに福島に戻り避難生活をした。現在は除染作業の仕事をしている。

 

「震災のときは家族とキャンピングカーで高知県に行ってたんだ。連絡を受けて最初は三陸の方の津波だと思っていたけど、TVの映像を見て仙台平野が映って いたから、これは俺んちの辺りもヤバイんじゃないかなと思ったね。電話も繋がらないのでとにかく戻ることが先決かと思って、ほとんど寝ずに福島に向かった よ。日本海抜けて、新潟から会津に向かったんだ。会津若松辺りで原発の水素爆発の映像を見たから、これは自宅には戻れないなと思った。富岡町の人たちが田 村市に避難始めていると知ったからそちらに向かった。でも避難所はいっぱいで寝れるような環境じゃなかったし、ご近所さんに無事を報告できたから、キャン ピングカーで二本松の道の駅でしばらく生活することにしたんだ。3月末までそこにいて、燃料が手に入るようになってから母親を千葉の姉の所へ、自分は郡山 にある「ビッグパレットふくしま」の駐車場で4月末まで寝泊まりしてたよ。今は鈴木くん(鈴木一司さん)の空き家を借りて生活している。富岡町は警戒区域 で、当分帰れないだろうから、畑も庭も原生林に戻っていくだろうね。

 

その後戻っても開拓しなきゃいけないよね。仮設に入っている人、東京に住んでいる人、 てんでバラバラだよ。みんな悩んでいるところだね。昨日はもうちょい波大きかったけど、やれると思った。やっとホームポイントに戻ってこれた。今まで他の 場所でやらせてもらっていて、ビジターっていう気持ちあったし。ローカルとしてここでやれるっていうのはすごくうれしかった。ちょっと泣きそうになった。 ここから2kmぐらいの木戸川というポイントも見に行ったけど、思うところあるよね。家は無くなっているけど波だけはいいから。起きてしまったことは仕方 ない。今後のことはみんなで考えればいい。俺らはここで生活してきたし、これからもここで生活していかなきゃならない。

 

自分は50歳のときに原発の仕事を 早期退職したんだ。発電所の中で海水を分析しているサーファーから情報をちゃんともらっているし、信頼しているよ。今、年間で言うと1mmシーベルトぐら い。俺たちが俺たちなりに理解できる範囲でサーフィンをやり始めて行くのは、まあ、ローカルの義務だな。まして俺たちはここのポイントを最初に開拓したか らさ。ちょうど30数年前に巖(坂本巖さん)がここに連れてきてくれたときも台風でね。木戸川がでかくて入れなくて、ここは南ウネリでやれるからって。そ のときと同じ。岩沢が「よう帰ってきた」って歓迎してくれたんじゃないかな。昨日1番最初に入ったときに、30数年前と同じことをまたやり始めればいいだ けだなって思ったよ。そうすればまた若い連中も育ってくるだろうし。1から始めようって、感じだよね」

 


■小野寺潤一さん・・・石川県金沢市在住だが、2週間に1回は岩沢ポイントまでサーフィンをしに来ていた。

 

「ロングボードをここで始めたんだよね。6年間富岡町に住んでいて、東京に引っ越したんだけど、週末はここに来ていた。今は金沢在住だけど、2週間に1回 は来てたね。今日ここの波に乗って、一つ思うのはあんな震災があっても波は変わんないのかなって。岸を見ると崖が崩れてこんなぐちゃぐちゃになっているけ ど、覚えている波質は全然変わっていないよ。この日を大事にしたいと思って、愛しむように乗りました。夏は南風吹いてもメローでロングに適したいいフェイ スが張る優しい形の波。ここはいい場所ですよ。ローカルがやさしい。僕なんか年寄りを尊重してくれる。東北人の気質っていうのかな、穏やかでマイペース。 そういう人たちが全国に避難して、ここに帰ってこれないのが悲しい。いずれは戻ってくると思うけど、原発の問題もあるのでちょっと厳しい所はあるよね。国 も早く方針を出してくれないと生活がありますからね。波乗りが好きでも、ベースは生活ですから、それはちゃんとしてあげないとね」

 


■渡邊吉憲さん・・・楢葉町の自宅から避難して現在はいわき市在住。福島第二原子力発電所に勤務していたが、現在は退職。震災当日は福島第二原子力発電所にいた。

 

「先月まで第二原発で仕事をしていました。復旧作業員として、防護服着て。震災当日は夜までそのまま復旧作業で現場にいました。夜10時に帰って、避難所 を回り、夜中の2時にようやく子供を見つけました。朝6時に違う避難所で親を見つけて、ちょっと安心していたところ、第一原発の近くにいたので、“すぐに 逃げて下さい”と言われました。そのまま転々として、今はいわき市の姉の所にいます。サーフボードも家に置きっぱなしで、家は立ち入り禁止。原発で働いて いたので、放射線のことは知っているので、入る気がなくなって海から離れちゃってました。禁止区域解除で海に入ろうと思ってきた訳ではなく、一人でふらっ と来たら、みんなと打ち合わせはしてないけど、みんな来てました。一人で海をずっと眺めていたんですけど、やっぱり入りたくなりますよね。波いいし、変 わっていない。今までの顔ぶれに会って自分の中でここに来る前とは気持ちが変わってきましたね。これから家に戻って来ます。とりあえず始まりです」

 


■竹原太さん・・・双葉町の自宅から避難して現在はいわき市在住。福島第二原子力発電所に現在も復旧作業員として勤務。

 

「長年原発で働いていて、震災当日は息子の中学校の卒業式でたまたま休みをとっていた。それで家族と一緒にいれて。その後は地元の消防団に入っているの で、避難誘導をしてました。3日後、会社から復旧作業ということで来れないかと言われたけど、地元とは違う場所だったので行けませんという話をして。3月 20日から復旧作業の管理の仕事をして今に至っています。完全な形にしなきゃいけないので、それまではここにいるね。家は津波の影響はないけど、原発から 3.6kmの場所にあって、入れない状況。一時帰宅を4回して、運べるものは運んで、今はいわきにいます。今年の4月から家族と一緒に暮らせるようになっ てね。日々良くなってきているので大変ではなくなってきていますよ。今の環境にも慣れてきたね。自分はずっと双葉町、請戸でサーフィンしていたけど、あの 辺は線量はないけど、まだ入れてない。子供たちは毎年自転車で海に行ってたから、それが入れなくなって、他に行ってサーフィンはしたくないって。海は原発 から5kmがだめで、請戸は8kmなので、勝手な予想だけど、来年には入れるんじゃないかって。でも今日ここで入れてまずは一区切り。節目みたいな感じに なって良かった」

 


 

■木幡浩雅さん・・・転勤をして千葉県市川市在住だが、月に2回ぐらいは地元である岩沢ポイントまでサーフィンをしに来ていた。原子力関係の仕事をしており、第二原発にも通う。

「3年前に転勤になり、千葉の市川に住んでいます。でも月に2回ぐらいは福島に帰ってきて、地元でサーフィンしていました。自分も原子力関係の仕事をして いるので、福島第一原発に事務所があって、震災当日は後輩がそこにいました。親父が一人で福島に住んでいますが、避難して無事でした。後輩も何とか電話が 繋がり、郡山まで迎えに行きました。今でも第二原発にはときどき仕事で行きます。2、3ヵ月前に四倉で久しぶりに入りました。今日は岩沢に早速来ました。 みんな来ると思って。久々に懐かしい人に会えて嬉しいです。繋がりを感じて」

 

 

 


■武田博行さん・・・富岡町の自宅から避難して家族はいわき市在住、自身は仮設住宅に住み、福島第二原子力発電所に復旧作業員として勤務。

 

「最初は逃げろって言われて川内町に行ったけど、川内町も危ないって言われて郡山のビッグパレットに行ったんだよね。スクリーニングしないと他県に行って はいけないと言われたね。ビッグパレットもいっぱいで、どうしようかなと思ったら、かみさんの実家が埼玉だったのでそこに向かったんだ。でもガソリンがな くて、とりあえず行ける所まで行ったらちょうど白河でなくなって、そこからは新幹線があったのでなんとか行ったんだよね。原発で仕事をしていたから、1週 間後、第二原発に来てくれないかと連絡があり、とりあえず家族をそこに置いて福島に戻ったんだよね。山奥に旅館をとったということだけど、10畳に20人 ぐらい、雑魚寝。3ヵ月ぐらいそこにいたね。

 

去年の終わりにようやく仮設が当って、そこに今は一人で住んでいます。狭いんで家族はいわきに住んでいて週末 だけ帰っているよ。第二原発だから線量浴びることないし、毎日ちゃんと管理されているから。今日は本当にうれしい。入れると思っていなかったから。沖から サイズもあるし、昔の波になってきたよ。初心者の時に入っていたような波を思いだすね。景色は崩れたりしているけど、全体的に変わっていない。今日はこれ だけで酒飲めるね」

 


■横田聖さん・・・富岡町の自宅から避難して茨城県に在住。今年(2012年)の全日本に福島支部代表として参加。

 

「震災当日は午前中地元でサーフィンしてました。山田祥充プロとカメラマンの友人と午後、家でビデオのチェックしているときに地震がきました。ちょっとい つもの揺れとは違っていたのですぐに外に出たんですけど、冷静に判断するには時間がかかりましたね。余震もすごくて電気もない中、家族と家の外で一晩過ご して、次の日の朝に家の近くの高台に行って様子を見に行こうかなと思っていたら放送で“避難して下さい”って流れて。家に戻って家族と避難をするようにし ましたが、2、3日かなと思って荷物もあまり持っていかなかったんです。そしたらそのまま戻れない状態で。自分は母の実家が長野だったのでそこへ行ったけ ど、住む所がない人、身寄りがない人はもっと大変だったと思いますね。

 

サーフィンが少しずつできるようになって、日本海にサーフィンに行ったりしていろん な所に動くようになって、やっぱり海の近くに住みたくて。それで大洗に住むことになりました。仕事は契約で派遣の仕事をしています。全日本の支部予選、四 倉で行われることになって、最初は不安だったけど、福島代表で出れるのなら出たいと思って出ました。今回解除と聞いて、生まれ育った場所の近く、ここでも サーフィンしていたので、見に来たいなって思って来ました。サーフィンしたくなるのでサーフボードは置いてきました。着くまでの道のりは同じような感じ だったけど、今までとは違う心境でした。駐車場に着いて、瓦礫とかでぐちゃぐちゃな状態だけど、やっぱり昔お世話になった先輩やサーフィン始める前からの 先輩の姿があって、久々の再会、良かったです」

 


■遠藤朗生さん・・・富岡町から移り、現在は福島市に在住。福島県消防学校教官。震災当時は双葉消防本部勤務で、消防士として第一原子力発電所の爆発、火災のため出動した。

 

「震災当日は東京の消防大学校に入校していました。ちょうど消防の後輩が奥さんを千葉に送ってトンボ帰りするということがわかり、千葉の船橋で12日の朝 に待ち合わせをしました。後輩20人ぐらいに一斉メールをして返ってきたメールが2つで、一つは千葉で待ち合わせをした後輩の“千葉に向かっている”とい うメール、“海岸線が壊滅的、被害甚大、救助者多数。現在全職員で対応中”というメールでした。後輩と12時間ぐらいかけて福島に帰ってきて、自宅に一旦 戻りましたが、両親の消息が掴めませんでした。そのまま富岡の消防署に行きましたが、夜8時ぐらいに撤退の指示が出たので、川内出張所に行きました。12 日午後に1号機の爆発があり、13日には原発で冷却水がないということで6トンの水槽車で第一原発の中にいました。そのとき3号機の排気筒から水蒸気が出 ていました。格納容器の圧力を逃がす排気筒なので考えれば3号機はぎりぎりの状態だったのでしょう。そして震災から3日後に両親の無事を確認しました。

 

14日、6トンの水槽車だけでは足りないということになり、自衛隊が7台の水槽車を持ってきました。原子力災害対策センターで自衛隊の人たちと打ち合わせ して分かれてから、ものすごい地響きがして振り返ったらすごいキノコ雲が上がっていました。3号機の水素爆発でした。自衛隊の人たちがケガをしてうちの救 急隊が搬送しました。恐かったですね。16日の朝、4号機の建物の油火災が発生し、21人で出動しました。各車両の隊長がどこから給水するかを打ち合わせ しました。けれどもすでに400mmシーベルトを超えていて、その日は活動できませんでした。その後、東京消防庁の人たちが来て、3号機を冷却してくれま した。始めの一週間は地獄のようでしたね。寝る場所もないので車両を出して車庫の中、コンクリートの上に寝ました。狭い出張所に100人の消防士が寝まし た。食べるものも賞味期限の切れたパンと水、カップヌードル。人間食べないとだめですね。俺、もたねえなって思いましたね。

 

双葉郡の捜索は原発のため次の日 から入れず、4月9日から入れるようになりました。188人のご遺体を発見しました。捜索の途中、5月1日付けで福島県消防学校の教官として行くことにな りました。仲間を置いて行きたくなかったけど、組織の約束だからということで行くことになりました。最初は笑えないし、寝れないし。夜寝ると捜索の夢を見 ました。あの頃は本当に辛かったですね。でも消防士の卵たちの目がキラキラしていて、まっすぐぶつかってくるんですよ。教えているつもりでも自分が救われ ましたね。今、全国でオファーがあって3、4時間講演しに行きますが、受講者は涙を流して聞いてくれます。いろいろな情報が流れる中で、俺はこいつ(竹原 太さん)ら復旧作業員の言葉を信じています。“俺らが命かけて止めますから俺らに任せて下さい”って。

 

復旧作業員は年間50mmシーベルトって決められて いるんですけど、“いくつ浴びたの?”って聞いたら“40mmシーベルトは超えたな。でも4月にはリセットされるからまた入れるよ”って言う。俺は外部被 爆も内部被爆もしたけど、ホールボディカウンター3回受けてほとんど検出されていないから、全部排出しているということ。本当にこいつらに頭下がります。 郷土愛なのか、使命感なのか本当のヒーローは復旧作業員だと思いますよ。

 

双葉は復興というよりも復旧がまだで、ライフラインが整っていない所がいっぱいあ ります。まだ家族とばらばらに暮らす人もいます。やっと県外に避難していた人たちが県内に戻りつつもあります。今回楢葉町の警戒区域が解除されて人が戻っ てきてくれるとうれしいけど、それは望めないことなので。特に子供さんがいる方はね。子供がいない町って先がないですよね。あと何年頑張ればいいのか読め ない。やはり人ってゴールが見えないと士気が下がるというか。瓦礫の処理の問題もありますが、俺らは責任を持って福島の瓦礫を福島で処理することに向き 合っていきますが、宮城とか岩手の瓦礫は受け入れてほしいと思いますよ。俺らはしょうがない。しょうがないって言葉は嫌いなんですが、震災以降はよく使い ますね。

 

双葉郡の高校生が県外に転校してついたあだ名が“放射能くん”ですって。県内の避難先で就職した人が“賠償金いっぱいもらっているんだから働かな くていいんじゃねえの?”って言われて。その人は“賠償金全部返すから家返して”って、仕事辞めたそうです。双葉郡の人の気持ちは双葉郡の人でなければわ からないんでしょうね。自分は1年間は喪に服すって決めていたので、今年の5月から四倉で入りました。波待ちして涙出てきましたね。そして今日はじめてこ こ(岩沢海岸海水浴場)まで下りてこられた。あの頃は入れるようになるとは思わなかったですね。ここが俺のホームなので。ここをホームにしている奴らが 全国にばらばらになったので。そこが解除されたので鎮魂、供養を含めて今日は来ました。波待ちで涙出ましたね、でもその後はニコニコしちゃって。広野町の Jビレッジにある消防本部では線量も低い。他県のサーファーの友人から“福島行っていい?”って連絡もらったけど、サーフィンは勧めないです。自分の判断 で入ってもらうしかないです。俺は海から離れられないですね。やっぱ海はいいですね。最高です」

 

 

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