世界で戦う大原洋人が、いまの心境と本音を熱く語ったロング・インタビュー。

 

 

WJC 3位、US OPEN優勝と、日本サーフィン界の記録を塗り替えてきた男。走り抜けた2015年。ここまで自分がやって来た事、この先に向けて必要な事。大原洋人がいまの心境と本音を熱く語ったロング・インタビュー。

 

interview & photo :  sadahiko yamamoto

 

US OPEN優勝のあとはクォリファイまで、どのぐらいポイントが必要なのかなって考えました。

 

-プライムチケットを獲得して挑んだ2014年は、鳴かず飛ばずだったね。しかし、昨年、2015年はUS OPENも優勝するという結果を残した。この2年の間に洋人に何があったの?

 

2013年のワールドジュニアの時に初めてブラジル行って、それで、3位になっちゃったから、何か気持ち的に行けちゃうのかなって。プライムでも、今の自分の100%出せれば、勝てるかもって。

 

プライムにチャレンジした2014年を振り返るとトレーニングとか何もしてなくて。ただ、ひたすら練習はサーフィンだけ。自分のやりたい技をやるだけでした。けっこう軽い気持ちで試合に臨んでいたら、当然、全部ダメで。そこで、本当にしっかり打ち込まなければ、プライムでは勝てないなって思って。

 

それで、サーフィンの練習だけでなく、もっとトレーニングもしなきゃいけない。でも、他のトレ−ニングを今以上にやっても、やっと戦えるか、戦えないかぐらいのレベルにしかなれないんだろうって、悩んだ年でもありました。

 

 

 

 

エアーじゃなくて、ターンだけで点が出せると思ってからは気持ちが楽になりました。

 

 

2014年は一年間戦ってみて、試合に勝つのにどんな技をしなきゃいけないのかと思った時に、エアーはそんなにいらないのかなって。そこまでリスクを犯さなくても、普通のターンでもっと磨きをかければ、もっと勝てるようになんじゃないかと考えるようになりました。

 

2015年は一発目からプライムを優勝しようとか思ってもいなかったし、別に試合でも無理せず、ただ今までどおりのサーフィンをして、本当に一つ一つ勝てていければ良いなって思ってシーズンインしました。

 

それで、サウスアフリカのプライム「Ballito Pro」で、一回戦で負けちゃったけど、初めてターンだけで、エクセレント(8.27ポイント)出せて。その時は自分では、そこまで出ていなかったかなって思ったんですけど、エクセレント出せたことに嬉しくて。やはりエアーとかじゃなくて、ターンだけでも自分は点が出せるかもって思ってからは、けっこう気持ちが楽になりました。

 

 

日本サーフィン史上初のUSオープン優勝という偉業を達成した大原洋人 photo:WSL

 

USOPENで優勝した後に結果が続かなかったということは、そこまでの実力なのかなって。

 

-サーフィンへの考えを変えたっていうことなんだね。ターンは基本だけど、これを武器にするって、そこで初めて思ったんだ。それで2015年のUS OPENへの優勝ってつながるわけだけど、その後が続かなかった。チャンスをつかめなかった原因は、何だと考えている?

 

US OPEN前までは1ヒート1ヒート、ベストを尽くせればいいなって。優勝というよりも、一回一回をしっかりこなして、自分のサーフィンを出せれば良いとやっていました。でも、USOPENでファイナルへ行けて、優勝できて。そのあとはけっこう考えちゃって。

 

あとクォリファイするのは、どのぐらいポイントが必要なのかなって思った時に、この大会だったらこのぐらいまで勝てばイイやとか、けっこう計算をしちゃっていましたね。それで、次のプライムでファイナルよりも、とりあえず、3メンヒートぐらいまで行ったら、2000ポイントぐらいだから、ここで稼げれば良いかとか。そういうこと考えてやっていたら、全然試合も上手くいかなくて。当たり前ですよね。試合に集中してなかったです。

 

 

-では、どうやって次につなげようと思っている?

 

そうですね、計画、計算が良い方向に行けば良かったんですけど、逆に悪い方に出てしまいました。確かにUSOPENで優勝したっていうのは、良かったと思いますけど、やはり、その後の結果が続かなかったということは、今はそこまでの実力なのかなって。

 

だから、また今年は昨年以上にランキングを上げたり、勝てるようにするには今のままではダメだろうし、何か変えなきゃいけないって考えています。 US OPENの後から思ったその気持ち、今年はどんな良い結果が出たとしても、一年間は同じ気持ちで試合に臨みたいと思っています。

 

世界チャンピオンのデ・スーザ(写真左)も通うSBJJ

 


ハワイにいる時は週3回 「SBJJ(Sunset Beach Jiu-Jitsu)」で1時間、体幹トレーニングをやっています。今まで何もやらなさ過ぎだったので、このトレーニングは続けます。やれるだけやって、まだ何か足りなければ、新たなプログラム、カリキュラムを追加したりして、何よりも今は集中してやることだと思っています。

 

 

桂の父さんがローアーズのローカルに紹介してくれて、毎日そこで練習させてもらいました。

 

-WJCの3位でプライムチケット獲得、US OPEN優勝と自分の描いた計画の中では早く達成しているよね。ラッキーだと言われることもあるようだけど、実際はどうやって世界へ出ようと思ったの?

 

最初に日本のハーレーとの話の内容だとインターのマターで、例えばコーチングとか、フォトシュートだとか参加できるよ、みたいな感じでしたから。おっ!それはイイなって。でも、そういう話が全く出ないから、聞いてみると「洋人のこと知らない」と。

 

その当時は、日本人選手と言えば、マー君(大野修聖)ぐらいしか知っている人が少なかった時代ですね。だからそういのもあって、「日本人?」みたいなこと言われますって。それで家族会議して、アメリカに行こうと決めました。

 

その前の年にアメリカのNSSA 出て、名の売れている選手と戦って手応えがあったので。ここで実績残せれば、ハーレーの人もわかってくれるだろうって。だから、家族会議で、そいつらともっと戦いたいと自分から話しました。

 

 

一年の半分以上は小林家へ行く感じでした。

 

 

-アメリカに行くと決めて、実際、向こうでどう活動するつもりだったの?

 

その前年にアメリカで、試合に出るのにステイさせてもらっていたのが、小林桂の家でした。正樹さん(桂の父)がローアーズのローカルに紹介してくれて、毎日、そこで練習させてもらいました。

 

NSSAの全盛期だったし、毎週、アメリカのあらゆる試合に、桂と行っていました。桂は2歳年下なので、兄弟みたいな感じでしたね。トラッセルズは毎日、3ヶ月一緒にやっていました。最後の方はトラッセルズが飽きちゃって、他に行きたいって真剣に思うぐらいやっていました。

 

今、桂は試合だけでなく、トリップも増えているみたいで、自宅にいることが減ったようだから、この頃に行けたのは、すごく良いタイミングだったと思います。

 

NSSAは自分と同じぐらいの子は、ほとんどが出て廻っていました。正樹さんが「洋人、これ出たかったら、これ出なきゃダメだよ。」と教えてくれて。だから、その時は小林さんの家にいて、桂と一年のうち試合のある期間中、3ヶ月ぐらい一緒に廻って、日本に帰って来て、また3ヶ月行ってと、一年の半分以上は小林家へ行く感じでした。

 

それで、15歳の時、ダブル優勝して。ウェストコースト、カリフォルニア選手権で優勝して、ナショナル全米でジュニア2番になりました。でも、実はNSSAがここまでアメリカで盛り上がっていて、グロム、ジュニアを探す原点になっているとは知らなかったんですよね。

 

 

-英語とかはどうしたの?

 

NSSAに出ていた時とかは、まだ全然ダメで。桂のとこ行って、海で降ろされて、一日中海にいるという感じでした。昼になると「昼飯とかどーする」ってなって、「誰々の家行こうぜー」って言って。そいつに「お前んちで飯食わせろ」って。それで、みんなで一緒に行って、飯食って、バスケして遊んで。また、海に戻ってサーフィンして、夜迎えに来てもらうというのが、日常でした。

 

だから、何を言っているかわからないけど、とりあえず、一緒に入って、バスケしているみたいな感じで。映画もわからないから、3回見たりして。それでも、家に一人でいるよりはこっちの方がマシかなって。英語わからないのに、いつも遊びに来るから、みんなも優しく教えてくれたり、桂も自分がわからないと日本語に訳してくれたり。だから、そういうのもあったので、全然嫌でなく、過ごすことができましたね。そこから、だんだん喋れるようになった感じです。

 

-それでハーレーのインターに声を掛けられたりしたの?

 

それでNSSAに出ていたら、「日本の洋人が大会出ているから、もし、いたら話しかけてやって」って、日本から連絡入ったみたいで。その当時のジュニアのチームマネージャーのブランドン(Brandon Guilmette)が来て、「ヘイ、ヒロト!」みたいな。「えっ、この人誰だろう?」って。

 

英語もその時は、まったく喋れないし。桂がいるから桂とブランドンが喋って、桂が「こう言っているよー」って教えてくれて。電話番号を渡してくれて、「何か困ったら連絡して来い」って言ってくれて。で、初めてハーレーの本社呼んでくれて、洋服をもらったりとか、本社の中を案内してくれて。ハーレーはこういう感じ何だなって、初めて実感して。それからブランドンと良く会ったりするようになりました。それが15歳の時です。

 

 


 

一年経って、US OPENがまだハーレーが冠の時、ワイルドカードがもらえて。あとオーストラリアでやっているハーレーのジュニアのフォトシューティングに呼んでくれたりして。日本のライダーだから、日本とも話していましたけど、現地だと直接、ブランドンに言うことも増えて、それで、インターとも近くなったって感じです。

 

今、ブランドンはインターのマネージャーで、CT選手のケアーに忙しくなっちゃいましたけど。今でも気にかけてくれて。昨年のポルトガルのCTの時には部屋を提供してくれたり、大会中もVIP登録までしてくれて、今でもすごく仲良くやっています。

 

あと、オーストラリアのマネージャーでミッチー・ロスがいて。ミッチーもその時、グロムの担当だったんですよね。だから、今でもオーストラリアのトリップになると当然、ミッチーがからんでくるから、その時に仲良くなったのが一番大きいですね。

 

その頃はナイキがまだサーフィン業界にいた時なので、ハーレーチームも今ほど大所帯じゃなくファミリー的な感じでしたから。今、考えるとベストな環境だったと思います。ハーレーのインターと日本のバックアップが無かったら、今の自分はありません。

 

コーチとしてだけでなく、ハワイでの生活も糟谷修自から学ぶ事が多い。

 

QSを廻るのに修自さんをコーチとしてヘルプしようということが決まったんです。

 

 

– 修自さん(糟谷)は、いつからコーチになったの?

 

アメリカとかハワイとか全部集めたNSSAの大会に出て優勝して、日本人なのにスゴイじゃんって。パット・オコーネル(当時のインターのチームマネージャー)とかボブ・ハーレー(オーナー)とかが知ってくれるようになって。

 

修自さんは修自さんで、前にハーレーインターにいましたから、修自さんの耳にも自分の評判とかが入ってきたらしくて。それをロブ・マチャドが言ってきたとか、たぶん、修自さんも「えっ、日本にそんなライダーいるの?」ってなって。

 

US OPENのジュニアで5位になった時に、ちょうど日本からハーレーの社員の人も多く来ていて、それでアメリカでの評判を肌で感じてくれたみたいでした。修自さんが日本に移った時に、日本のハーレーとうち(大原家)とで話して、QSを廻るのに修自さんをコーチとしてヘルプしようということが決まったんです。2013年夏からですね。修自さんにはいろいろサポートしてもらいました。本当に感謝しています。

 

 

本当に世界を目指しているのか?そうならば、日本の枠を取り去ることです。

 

 

– 今、洋人のベースはハワイにあって、外から日本を見ることできるよね? 日本のプロサーフィンはどうしたら、もっと良くなると思う?

 

本人の努力はもちろん必要ですけど、ちょっとしたチャンス、運だったり、自分みたいに、こっちに住むチャンスがあることも確かに必要ですけど、やはり一番は自分が目指しているところが、どこにあるかだと思います。本当に世界を目指しているのか?そうならば、日本の枠を取り去ることです。

 

日本にいるから、海外の選手だって意識してしまう。世界に出て、世界に住んでみたら、自分も外人だし。違う国の人同士でも、所詮、人間は一緒ですから。結局はコンペでもそれが一緒って思えるのが、必要なのかなって。でも、日本にいるとそれを意識していないと難しい。で、逆に苦手になってしまう。

 

あと、逆に日本をベースにして、世界の大会に出ている選手はグループだったり、2人だったり。身内でサーフィンしてっていう感じになりやすいですよね。で、実際、友達同士とかだったりすると楽しいじゃないですか。初めて海外に行った時とか、みんなで簡単に動けて、「今日、飯どうしよう」「どこどこ行こうよ」って。

 

それも楽でイイなって、その頃は思っていたんですけど、なんか日本人同士だと「今日の波はどうだったね、こうだったね。誰々上手かったよね」って話し出すじゃないですか。そうなると自分は、その会話が丸ごと頭に入っちゃうんですよね。

 

みんなの話を聞いていると、「いやー、おまえ、次誰々じゃん。アイツ、ヤバかったよ」「めちゃくちゃヤバいエアーを決めてたよ」とか、マイナスのことばかり。それがマイナスだと思って言ってないと思うんですけど、まるで誉めているがごとく言い合っているから。それが自分たちのマインドを潰しているみたいだなって、違和感がありました。

 

一人だったり、外人と一緒だったりとか、そこまでみんなのこと気にしないですよね。で、外人だと「誰々上手いよね。でも、お前なら全然いけるよ」っとか、何かポジティブというか。

 

 

 

 

全部一人で乗り越えて結果まで出す。だから、マー君はかなりリスペクトですね。

 

 

今まで日本人は、外人たちが入り込めない環境を自ら作っていたと思うんです。マー君(大野修聖)も一人で行って、外人たちの選手ブース行ったら、当然、外人しかいなくて、そこに自分の居場所がないから、居づらいみたいなことを最初の頃に思ったようですけど、自分も今まで通りだったら、同じように思うのかなって。

 

– 確かに居場所が無いって思っている限りは勝てない。居場所とか言っているのは、自分で壁を作っているだけだと。同じ人間なんだって思えるようにならないと、勝てるわけないとマーも言っていたよね。まず「自分在りき」と。

 

そう、それを最初にやったのが、マー君。もう本当に極めて極めてやってきた。一人で行って、それも全部一人で乗り越えて、結果まで出す。だから、そこはかなりリスペクトですね。自分は今、アメリカへ行ったりして、所々に知り合いがいて、一人で大会会場へ行っても友達がいるから、意識しなくても平気ですけど。やはり、それが無かったら一人で海外っていうのは、難しいかなって思います。


 

外人に構えないというか、頭で考えないで感じる。だから勝っても負けても意義がある。

 

 

– では、世界を目指すグロム、ジュニアに対してアドバイスは?

 

結局、自分一人、もしくは友人と行っても、そこで籠っちゃうから。やはり、そこに大人が手を差し伸べて、例えばメーカーのマネージャーとかいれば、変わるんじゃないのかなって思います。やはり大会に出るのは優勝とか、ポイントを稼ぐとかしに行っているわけだから。確かに一人で行っても大会に出られるけど、一人で行って確実に優勝できるかと言ったら難しいと思うし。

 

でも、今、早いうちからアメリカ行っている人もいれば、オーストラリアの試合に出ている子もいますよね。どちらがベストとかは言えないけど、小さい時から外人と当たって、勝ち負けやっていたら、先入観持つ前だから良いと思うんでよすね。何て言うんですか、外人に構えないというか、頭で考えないで感じる。だから、勝っても負けても意義があると思います。

 

ただ、海外に行くだけではダメだと思います。そこで、何をしたいのか、目的意識を持っていないと何も得られない。だから、自分がどうしたいかを決めてから、いろんなことに挑戦してほしいと思います。

 

 

カノアが、CTを決めた時から、入ってからどうしたらいいのか考えてます。

 

 

– さて、最後に夢じゃなくて、これからのビジョン(展望)を聞かせて。実際にクォリファイするために考えていることは?

 

昔からの目標であった、CTに入ることです。プライムに出て、これだけ違いがあるんだってわかったということは、クォリファイしたら、また、さらに世界が違うんだろうなって思うんですよね。未知の世界。

 

一緒に廻っていたカノア(五十嵐)が、CTを実際に決めた時から、CTに入れるかなっていうよりも、入ってからどうしたらいいのかと考えるようになりました。

 

ただ、実際にクォリファイしたら、パイプだけでなく、チョープー、フィジーとか滑るわけだから、果たして自分はここを滑れるのか?そこで改めて自分はまだそのレベルではないと思ったんですね。だから、逆に今年クォリファイしなくて良かったって、今は思っています。

 

初めて行って、「スゴイ波だった!」なんて感想しか言えなかったら、まずいですよね。やはり、一回、そこの地をフリーサーフィンで行って経験して、どんな波かどんな場所かを知っておきたいというのがあります。それは自分がCTに入れた時に、必ずできなきゃいけないから。だから、今は常にその先を考えながら、練習しています。

 

 

 

 

大原洋人、19歳。

 

NSSAに始まり、WJC 3位、また、昨年のUS OPENの優勝と日本人として、いろいろな記録を塗り替えてきた。しかし、ここまでの道のりはけっして楽なものではなかった。

 

13歳でプロを決意するも、大きな結果を出せなかった洋人は、家族と相談のもとにアメリカを目指す。そこで、小林家との出会い。圭とともにNSSAの大会にフルエントリー。毎日、トラッセルズで練習し、地元の仲間も次第に増えるとともに英語も覚え、アメリカで一年のうち大半を過ごすようになる。

 

もし、洋人がラッキーだと言うのならば、この時代にカリフォルニアにいたこと。また、小林家と係われたこと、桂といたこと。ローワーズで飽きるほど練習できたこと。そう、このタイミングこそがラッキーだったと言えるだろう。

 

そして、NSSAにおいて州代表を獲得し、全米選手権で2位という成績を収める。その時には自身でハーレー社のインターともコミュニケーションとれるようにもなり、逆輸入で日本のハーレー社にもその実績を認めさせることとなる。その後、糟谷コーチが就任し、体制が整い、今に至る。

 

洋人は幼少から糟谷修自コーチとともに、この快進撃が作られたと一部メディアで伝えられているが、実はそうではなく、それまでは一人で挑戦し、家族と共に歩んできたのが真実だ。

 

洋人は世界の扉を自身の力でこじ開けて来た。それを応援したのは紛れも無く家族。生活を犠牲にするほどの覚悟がなければ、今の洋人はない。そして、それを助けた小林家、サポートしたメーカー、洋人に係わるすべての関係者のおかげだと。今、洋人はすべての人に感謝しつつ、家族に一番の恩返しをしたいと考えている。

 

今、大原洋人はプロサーファーというより、プロアスリートとしてビジョンを持つ。アスリートだからこそ、厳しいトレーニングもこなす。そして、応援する家族のもと、この努力が実を結べば、所属がJPN である日本人としての初のCTサーファーの誕生となるだろう。

 

最後に。グロム、ジュニアの選手へ。勘違いして欲しくないのは、誰でも洋人の環境に行けるわけではない。これは洋人がつかみとったもの。また、洋人と同じことをしてもダメだということ。これと同じことをしても、洋人すら超えられないということを理解して欲しい。

 

メーカーがサポートできることは限られている。だから、この環境でどこまで自分を伸ばせるか。今の状況を悲観せず、自分のやり方を見つけることができるか。人を羨むのではなく、自分がそこでどれだけ努力できるか。今の環境に不満を言う前に、今できることを最大限やってみること。

 

それを洋人が証明した。実績が無いなら自分で作れば良い。英語圏が有利なのは、間違いないだろう。しかし、そこに行けばすべてが手に入るわけでもない。そこで努力し、チャンスをつかむことができるかだ。どこにいてもやるやつはやる。日本でも海外でも最後は本人の持つ強い気持ちが必要だということを忘れないで欲しい。

 

 

 

 

名前:大原洋人

生年月日:1996.11/14   19 歳

スポンサー:Hurley, MONSTER ENERGY, JS SURFBOARD, FCS, OAKLEY

日本、千葉生まれ ハワイ在住

サーフィン歴:  11年

実績:

2015年 WSL QS1000  Billabong Pro Shikoku     3位

WSL QS10000  Men’s Vans US Open of Surfing    優勝

2015 Men’s Qualifying Series最終ランキング 34位  13750pts