ドナルド・タカヤマ(1943~2012)サーフィン界の巨星、逝く。

photo & text : takashi tomita

 

またひとり、サーフィン界は偉大なレジェンドを失った。
1950年代から永きにわたりサーフインダストリーの発展に大きく貢献してきたマスター・クラフツマン/シェイパー/デザイナーのドナルド・タカヤマが、10月22日、カリフォルニア州オーシャンサイドで永眠した。68歳だった。世界的なシェイパーとして名を馳せたドナルド・タカヤマは、その生涯をサーフィンとサーフボードのデザインに捧げてきた。

 

晩年のプロジェクトのひとつだったレッドウッドのホットカール。硬いウッドを丁寧に削りだす

 

 

デイル・ヴェルジーとの運命的な出会い

1943年ハワイ生まれ、ワイキキでサーフィンを覚え、子どもながらに自分のボードをシェイピングし始める。最初のボードはレッドウッドで作ったが、あまりに重すぎたため家に持ち帰れず、ビーチの砂に埋め、サーフィンするときに掘り起こしていたという。その後カリフォルニアからハワイを訪れていたデイル・ヴェルジーとの運命的な出会いが、ドナルドの人生を大きく変える。削ったボードをヴェルジーに褒められ、カリフォルニアのショップで働かないかと誘われる。ドナルドはカリフォルニアに行くことを決め、ポケットのなかの10ドルを握りしめロサンゼルス空港に降り立つ。このときわずかに13歳だった。

 

ジェイコブス・サーフボードのメインシェイパー

 

当初は「ヴェルジー&ジェイコブス」のファクトリーのロフトの段ボールのなかで寝ていたドナルドだったが、シェイピングのスキルに磨きをかけインダストリーのなかでも指折りのクラフツマンに成長していった。ヴェルジーとジェイコブスが袂を分かつと、ドナルドはジェイコブスについて行き、ロングボード黄金期の60年代には、「ジェイコブス・サーフボード」のメインシェイパーとして活躍する。ハップ・ジェイコブスは当時からドナルドのシェイプの上手さは別格だったと振り返る。この時代にドナルドがリリースした、ドナルド・タカヤマ・モデルとデヴィッド・ヌイーバ・モデルはサーフボード・デザインの歴史のなかでも金字塔といえるモデルとして、いまもマニアの間で語り継がれている。とくにノーズのボトムに大きなコンケーブを擁するヌイーバ・モデルは、ノーズライダーのスタンダード・デザインとして後世のシェイパーたちに大きな影響を与えてきた。

 

 

60年代から現代まで、数々のモデルを生み出してきた。それらは世界中のサーファーの憧れでもある

 

ハワイアン・プロ・デザインがスタート。

 

1970年代に入ると、ドナルドは自らのブランド「ハワイアン・プロ・デザイン」をサンディエゴのオーシャンサイドに興し、ショートボードの時代になってもツインフィンなどのデザインを精力的に探究した。ラリー・バートルマンのスケーティーでラディカルなサーフィンを可能にしたタカヤマ・シェイプのバートルマン・モデルは、70年代後期に一世を風靡。多くのサーファーがそのデザインとサーフィンに魅了された。

 

シェイプルームでチームライダーのカイ・サラスと新たなSUPモデルの開発を行なうドナルド

 

ロングボード・リバイバルの立役者

 

こうしたサーフィン界に刻んださまざまな功績から、ドナルドは1985年に「サーファー」誌による「サーフィンというスポーツを変えた25人」のひとりに選ばれる。その直後、彼はいわゆるロングボード・リバイバルの立役者として、サーフシーンにロングボードが復活する一大ムーブメントに一役買うことになる。一時期ショートボード革命以降シェイプから離れていたハップ・ジェイコブスを、80年代後半に改めてサーフインダストリーに再び引き戻したのもドナルドだった。彼はロングボードのコンテストにジェイコブスを誘い、ビーチでシェイプ道具一式を笑顔で差し出し、ジェイコブスに再びボードを削るように笑顔で促したのだ。

 

 

ジョエル・チューダーとの出会い

 

ロングボードが復活しサーフシーンに定着したのち、ドナルドはジョエル・チューダーという稀代の天才サーファーと出会う。ふたりはともにロングボード・サーフィンをさらに先の次元へと推し進めた。これにより名匠ドナルド・タカヤマの名は改めて世界に響き渡り、彼のボードは世界中のサーファーたちの憧れとなった。

 

シェイパー、デザイナーとしてはもちろんだが、タカヤマはサーファーとしても若い頃から優れた能力を持ち合わせていた。Surf Crazy(1959年)やBarefoot Adventure(1960年)などの多くの古いフィルム作品で彼は、まだ10代ながら素早い足さばきと美しいハワイアン・スタイルのサーフィンを披露している。またボードの長さが3フィートも短くなった時代においても、自らのライディング・スタイルをうまく適応させたサーファーのひとりだった。1971~73年にかけてUSチャンピオンシップスのマスターディヴィジョンで優勝するなど、ドナルドはどんな時代にどんなボードに乗っても類い稀なサーフィンのセンスを発揮した。

 

多くのサーファーを家族同様に愛し育てた。

 

さらに、自身のチームライダーとして多くのサーファーも育ててきた。ジョエルのことは新しい次元を切り開いたその可能性を、彼が独立した後も変わることなく高く評価し続けた。ハワイアンのノア・シマブクロはまるで我が子のように可愛がり、その謙虚な性格をつねに讃えていた。カシア・ミドーも、世間の評価とは別に、彼女の思慮深さと努力家としての一面に早くから一目置き、女性サーファーとしての彼女の成功を誇りにしていた。そして宮内謙至に対しても、大切なファミリーのひとりとして同じ価値観をつねに共有していた。

 

ウッドの時代から半世紀以上、ずっと休まずにサーフボードを作り続けてきたマスタークラフツマンの手

 

もしもう一度生まれ変われるのなら、同じ人生を生きたい

 

その性格は人懐っこくお茶目で、誰からも愛されている人だった。表情が豊かで冗談好き。そのキャラクターはハワイのビーチボーイが放つアロハスピリットをそのまま体現しているかのようで、常に周囲への優しさに溢れていた。

 

晩年はオーシャンサイドのファクトリーに早朝未明に現れ、シェイプルームに籠って仕事をしていた。その時間に彼がシェイプルームにいることを知っている友人知人は朝早くから訪ねてくる。ときにそれはドナルドの仕事の手を止めることになるが、来客者がサーファーやシェイパーであれば、彼は嬉々としてそのとき取り組んでいるプロジェクトを披露して見せた。

 

ドナルドは晩年のインタビューで、「もしもう一度生まれ変われるのなら、同じ人生を生きたい」と語るほど、自らの生きてきた環境とライフスタイルに満足していた。アロハという言葉とともに育ってきた彼は、シェアして助け合うことを何よりも大切に生きてきたという。「誰かをサーフィンに夢中にさせられたらすごく嬉しいね。私が得たフィーリングを誰かとシェアするのは素晴らしいこと。それに私はずっとストークしてきたんだ」

 

ドナルド・タカヤマが、サーフィン界に、世界中のサーファーにシェアしてきたもの。それはサーフィンを愛するピュアな心だったのかもしれない。彼が生涯を捧げて与えてくれたスピリッツを、いまひとりでも多くのサーファーと分かち合いたい。それがドナルドが本当に心から望んでいることだから…。

 

 

Donald Takayama Memorial Paddle Out

Oceanside, CA — Waikiki, HI — Kugenuma, Japan

高山さんのメモリアル・パドルアウトが彼のゆかりの地である、カリフォルニア、ハワイ、湘南で開催される。カリフォルニアとハワイは現地11月10日。日本では、宮内謙至が中心となり、尾頭信弘、島尻裕子らタカヤマ・ファミリーによる追悼式が、湘南の鵠沼海岸スケート前にて、11月4日(日)午前11:00より行われる。高山さんに感謝の気持ちを伝えたい人など、多くの方に参加してもらいたいと思う。詳しい場所、時間などはこちらをご覧下さい。http://www.hawaiianprodesigns.com/memorial-paddle-out/paddle-out-japan/

 

 

関連サイト:

http://www.hawaiianprodesigns.com/

https://www.facebook.com/pages/RIP-Donald-Takayama-1943-2012/160377637439616

https://www.facebook.com/pages/Hawaiian-Pro-Designs-Surfboards/184030187702?ref=hl